19: ヒンシュク・8 完結編 (初回掲載・2003年末、再掲載・2005年1月31日)

おもな登場人物:

      品野 俶臣(58)シナノ化成・社長、あだ名は「ヒンシュク」
    
      品野 登美子(53)ヒンシュクの妻

      品野 義男(29)俶臣・登美子の息子、シナノ化成従業員

      武藤 耀子(22)登美子の姪、大学生

      小池 徳次(80)品野家の近所のじいさん

      西村 洋一(29)義男の友人、塗装職人

      西村 慎次(26)洋一の弟、耀子の先輩

      竹本 浩三(47)保険代理店経営

      竹本 直美(45)浩三の妻、学習塾講師

      竹本 浩樹(17)浩三・直美の息子、高校生

      戸川 智 (18)浩樹のクラスメート

      花井 照正(33)農業を営む空手家

      品野 数由(56)ヒンシュクの従弟、ナンバー機材社長

      品野 雅恵(54)数由の妻

      ダース・ユーミン 竹本直美のネット友達



第8章:オープン囲碁トーナメント


                 1

8月は、まったく夏らしくない天気が続いて、気温もずいぶん低めだった。
とりわけお盆のあいだじゅう、雨が降ったりやんだりで寒いくらいだったから、「受験生」である竹本浩樹には幸いだった。

なにしろエンジンがかかるのが遅かったから、勉強といってもどこから手を付ければいいのか、とまどうばかりだ。
担任の先生は、『とにかく教科書が基本だ』とアドバイスしてくれる。
「土壇場に来て、あせったってダメだぞ、模擬試験はちゃんと受ければいいが、教科書を見直せ。 それと宿題の問題集な!」
浩樹としてはその言葉を信じるほかなかった。

コンビニでのバイトも辞めた。
愛機との別れは寂しかったが、オートバイはやはり手放した。
これから進学にともなって、お金が要るばかりだったから。
高校を卒業する頃には、もし親に借金できるなら、普通自動車の免許も取っておきたい。

戸川モータースで、ほんの少しだがお金を払ってもらえることになって、浩樹は領収書にサインをした。
不覚にもその瞬間に 領収書の上に涙がこぼれてしまって、あわてて手のひらでぬぐう。
戸川智の父親はそれに気づいて、何か気の利いた言葉のひとつもかけてやりたい、と思ったが、結局見なかったことにするに留めた。
・・・しばらくの辛抱だ、こんなに単車が好きなら、また乗れるだろうさ、そう言ってやりたいところだったが。

シナノ化成での囲碁の会には、浩樹は行くのを見合わせた。
武藤耀子に会えないのもつらかったが、みじめな気持ちのままで会うのは、もっとつらかったから。
すると、今までろくすっぽ勉強などしなかったから、いきなり時間が増えても持てあましてしまう。
「困ったな・・・」
そう思っていると、花井照正から自宅の電話に連絡が入った。

「元気か?」
「あ、はい、元気です。 こないだは、ほんとにお世話になりました」
花井の声を聞いたら、浩樹はエネルギーが湧いてくるような気分になった。
「いや、これからこっちがお世話になるだよ。 そっちの道場の準備会に出てもらえんかな? こんどの土・日、忙しいか?」
「行きます!」
即答した。
「サトルとケンジにも、声かけときます♪ あ、ケータイの番号まだだった・・・今からそっちにかけます」
やっぱり、目標が身近なほど頑張りやすいものだ。

花井はケータイで浩樹からの電話を受けて、ひとつニュースがある、と言った。
「こないだ捕まえた、単車の不良どもな、お前の学校のガラスも割っただと。 ・・・よかったな、疑いが晴れて!」
空手の道場生である警察官からの情報らしい。

グループのひとりが2年前に G 市に引っ越してから、4人で A 町と G 市を行き来していたという。
友情が続くのはけっこうだが、方向性が悪かった。
「若さのエネルギーのはけ口を、間違えなきゃええのにな」
という花井の無念さが、浩樹にはよくわかった。
そしてその思いが、空手の普及につながっているのだということも。


                 2

お盆に帰省した西村慎次からの連絡を受けて、武藤耀子はちょっとドキドキしながら会った。
慎次はアメリカへ渡る時にいったん車を手放したので、兄の洋一の車を借りて耀子を迎えに来た。
『S マリーナ』という、海に面したイタリアン・レストランで、遅めの昼食をとる。

窓からは様々な大きさ・デザインのヨットだのクルーザーだのが見える。
「さ、いくら食べても料金同じだから、たくさん食べよう♪」
慎次は耀子を促して、アンティパストの料理を取りに立った。
アメリカ帰りという目で見るせいか、耀子の目には、慎次の言動は洗練されたお洒落なものに映った。

椰子(ヤシ)の芽なんていう珍しい食べ物もあったし、メインの料理・ブイヤベースもおいしい。
食べながら、アメリカでの様子をいろいろと、慎次は耀子におもしろおかしく語った。
「ヨーコちゃんは、最近どんなことやってるの? 何かハマってる趣味はある?」
「そうですね、趣味は、囲碁・・・」
「囲碁? なかなかシブいね! なんでまた?」
慎次は『ヒカルの碁』をほとんど知らなかったので、耀子はそこから説明した。

料理も済んで、デザートのケーキをたくさん皿に盛ってきた耀子に、慎次は思わず聞いた、
「・・・それ、ふたり分?」
「いいえ、ひとり分だけど。 あ、慎次さんの分も持ってきましょうか?」
男の人はケーキを取りに行きにくいのかもしれない、と思って耀子は聞いた。
「いや、僕はいいよ。 店の人にコーヒーをもらおう。 ヨーコちゃんも飲むでしょ?」
「はい」

「ところで・・・」
と、慎次は少し改まった調子で声を落とした、
「ヨーコちゃん、誰か決まった人は、いる?」
「・・・いえ、私、モテないから」
答えてしまってから、我ながら芸のない答えだったかもしれない、と耀子は思った。
「そりゃあきっと、高嶺の花で、男どもが遠巻きにしてるだけだ・・・そんなら僕にもチャンスはあるのかな?」
慎次は笑いながら言う。
耀子はどう答えていいかわからず、気恥ずかしくなって照れ笑いを浮かべる。

「いやぁ~、実はね、僕も会社で、そろそろ信用のためにも身を固めてはどうだって、さんざん言われてて・・・」
と、慎次は笑顔で言い出した、
「これからしばらく本社勤務だけど、また海外の支社に赴任する可能性も強いから、英語のできる奥さんがいいな、なんて思って」
いわゆる出世コースへの夢を、慎次はエスプレッソを飲みながら語り始めた。

聞いていて耀子は、ちょっとショックを受けていた。
『信用のために身を固める』とか、『海外の支社に赴任するから』とか、それはあくまで慎次自身の都合ではないか。
もし、奥さんが仕事を持っていて、仕事を続けるためには海外へなど行けないとしたら?
きっと仕事を辞めてついてきてくれと言うのだろう。

日本の企業戦士の妻の多くが、夫の単身赴任に耐える場合も含めて、そうやって夫の会社の都合に合わせて生きているのか。
それでも、国内でも海外でも自分を生かす努力をして、素敵な奥さんとして生活している人もいる。
だが体力にそれほど自信のない耀子は、自分がはたしてそれに耐えられるだろうか、と自問してみる。

『ついて来てくれ』と言われたら困るかもしれない、しかし夫だけの単身赴任もいやだ、と耀子は思った。
それに・・・私は自分の可能性を、まだ何ほども試していない。
実は耀子はすでに、アルバイト先の生協に就職が内定していた。
それを一生の仕事と考えるかどうかも、まだはっきりわからない、というのが本音だったが、就職するからにはしっかり働きたい。

これからの人生で何ができるのか、あるいは何も目立った活躍はできないのか、それはわからない。
だけど、なんだか慎次の言葉の端々に、古い価値観がほの見えて落胆する思いだった。

「まあ、いきなりこんなこと言われても困るよね、でももしヨーコちゃんが考えてみてくれたら、うれしいんだけど」
耀子が押し黙ってしまったので、慎次は店の伝票をつかんで立ち上がった。
「はあ・・・」
と耀子は、あいまいな返事をして、ペコッと会釈だけして立ち上がった。
なんか、その「役目」は、私でなくてもいいんじゃないか、という感じがするじゃん。

エスプレッソの苦みが口に残っていた。


                 3

シナノ化成では、浩樹が参加しないまま、囲碁の会が土曜日ごとに開かれた。
耀子はおとなばかりの中で、物足りない思いをかみしめていた。

アメリカに帰った(?)慎次は、もうじき本社に帰れるからまた会おう、と言い残したが、その時のことを考えると気が重い。
結局、私は彼の表面的なところだけに憧れていたのだろう、と耀子は思う。

このまま冬に向かってしまうのか、と思うような涼しい8月が終わりに近づき、火星の大接近あたりの日も天気は曇りがちだった。
それでも夜空の晴れ間から、火星はかつてない大きさで南の空に美しく輝いた。
こんばんは♪・・・耀子は火星が現れた夜は、いつも心の中であいさつをする。

はるかはるか遠くの天体、超・大接近といっても、5576万キロも離れている。
それでも月の次に地球に近い天体。
そのむこうにはアステロイド・ベルトがあり、巨大な冷たい木星の軌道が・・・そう思って見つめていると心が吸い込まれそうだった。

そして耀子の脳裏にはいつしか、今野 敏(こんの びん)作品の『宇宙海兵隊・ギガース』の世界が広がっていた。
人類が木星圏まで進出している微妙な年代の物語。

人類はまだまだ地球の引力に縛られて生きてゆくしかないレベルだ。
木星圏はおろか、月まで行けた人間もほんのわずか。
『スタートレック』や『スターウォーズ』、『ペリー・ローダンシリーズ』の世界のような、自由な宇宙航行はまだ遠い。
ただただ人間の想像力の翼だけが、宇宙の深淵を超える。


                  4

ヒンシュク・登美子夫妻は9月初めに、地元の市民館での囲碁サークルに入会した。
9月15日の敬老の日に地区対抗の囲碁大会があったが、参加資格が60歳以上ということで、耀子も品野夫妻も出られなかった。

もっとも、耀子はともかく品野夫妻はまだ歴が浅いので、来春の年齢制限なしの大会までに腕を磨く必要がある。
小池老人は当然出場して、チームを団体優勝に導いた。

「いやぁ~、おめでとうさん、さすがだのん」
「ありがとさま。 春にはあんたんとうも頑張っとくれん」
15日の夕方、ヒンシュクと小池老人がビールで祝杯を上げている。

「地区対抗もええけどが、ワシはまっと(もっと)おもしろいこと考えたでのん」
と、ヒンシュクが不敵な笑みを浮かべてグラスを置いた。
「なんだん?」
「そこいらじゅうに声かけて、会社対抗の大会をやるだよ・・・ダブルスで」
「ああ、ペア碁かん」

ペア碁とは、ふたりひと組になって、交替で1手ずつ打つもので、自分の手番でない時は仲間に指示やサインを出してはいけない。
ペアを組んだ人がどんなにひどい手を打ったとしても、じっと我慢する忍耐力が必要だが、その分おもしろみがある。
「ベテランと、始めて半年以内のペーペーを組ませるだ。 11月にやるぞてって今から触れを出しゃ、ワシらは有利だ」

ちょうど5月から始めた、なんていう人間は、仲間内にそうそういるものではない。
『新人』が必要となれば、これから覚えるという人を選手にせざるをえまい。
ヒンシュクのもくろみでは、その頃には自分たちは5ヶ月近くやっているから、圧倒的に有利になるはずだった。

「さっそく名古屋へ声かけて参加チームを募集せるだ・・・小池さん、我が社のエースだで、頑張っとくれん!」
「わしは社員だないぞん?」
「ほんなもん、ええだよ、ほいじゃ一社当たり2チームで行くかな♪」
「誰と誰にせるだん?」
「あんたとワシ、それからヨーコちゃんとうちので2チームだな。 会場はこっちの市民館がええな」
「社長、竹本君とわしが組んだ方が勝てるぞん。 あんたは大会主催者で世話役だな」
「竹本君は受験生だで、出れんだら・・・最近ちっとも来(こ)えせんが」

竹本浩樹が来ない理由は、受験生ということだけではあるまいと、小池老人は思っていた。


                   5

11月23日の勤労感謝の日を狙ったが、市民館は行事予定があって借りられず、囲碁大会は24日の振り替え休日に決まった。
ヒンシュクは登美子にチラシを作らせて、それを各地の知り合いに FAX でバラ播いて電話もかけまくった。
名古屋の品野雅恵の親戚も、関西方面から駆けつけるという。
それぞれの参加チームと相談しながら宿の手配もしなければならなかった。

「会の名前は何にせるだん?」
「ほうだな・・・『レッツ碁』はどうだん?」
「それは NHK のテキストにあるぞん、まっとほかの名前にせなかんて、トミちゃんに考えてもらうだよ」
登美子はそう奇抜な名前も浮かばないということで、ヒンシュクがつけた名前が、『碁っちゃん会』。

エントリーするチームは、

      シナノ化成( G 市)『碁っちゃん会』

      ナンバー機材(名古屋市)『ナンバー5(ファイブ)マッハ碁』

      山盛織布( G 市)『山盛いただき隊』

      和菓子のおかめ庵( G 市)『八目(ハチモク)会』

      十三(じゅうそう)食器(大阪・十三)『ザル碁13(サーティーン)』

      民宿・サバ井((場所は秘密))『サバイバル』

      民宿・はまかぜ(福岡)『碁苦労会』

      アルコンファーム(北海道)『チーム碁馬(ゴマ)ちゃん』

船乗り時代の知り合いもいるためか、ヒンシュクはなかなか顔が広かった。
九州から北海道まで、よくまあ物好きでノリのいい知り合いがいたものだ。

「大会の名前は・・・『全日本実業団オープン囲碁トーナメント』だ!」
えらく大仰(おおぎょう)な名称をでっちあげて、ヒンシュクは意気揚々と市民館に申し込みに行った。


                  6

8月が寒いくらいだったのに、9月はずいぶん暑かった。
竹本浩樹たちが8月下旬から準備を手伝った道場は、9月からスタートした。
まだ新しい道着に白帯、それでも着ると気持ちが引き締まる。
13名の「第1期生」が、基本動作の練習をする。
これからもっと道場生が増えるように、自分たちもがんばらないといけない。

「お、道着がちょっと似合うようになってきたな」
練習の合間に、花井が浩樹たち3人組を見て笑った。
「押忍(オス)、がんばります!」
「不思議なもんで、道着もレオタードも、動きが良くなってくると似合うようになる」
この人の口からレオタードという言葉が出ると笑えるな、と思ったが、奥さんがエアロの先生だったっけ。
きっと何かの共通点があるのだろう。

花井先生のようにはなれないだろうけど、自分なりに強くなって、よりよい自分になれればいい、浩樹はそう思った。
だが隣を見れば、戸川智と山本賢治が気合いの入った動きをしているではないか!
・・・負けるもんか、と、思わず熱が入った。

夢中になって体を動かし、汗をかいていると、失恋のことも忘れられそうだった。
だが帰宅して、夜になって寝る時には、暴漢に絡まれた耀子を自分が助けるなどという、映画のワンシーンのような夢想が湧く。
やっつける相手は酔漢だったり、時には見たこともない西村慎次だったりする。

「なあ・・・誰か好きな子とか、おる?」
浩樹は翌日、学校から帰る時になんとなく智と賢治にそう尋ねた。
「好きな子? おれ、C 組のあいちゃん♪ サトルはあの子だら、A 組のオカモト!」
「おれなんか、向こうで相手にせんよ・・・」
と、サトルは笑いながら、醒めた言い方をしている。

「なんだ、ヒロキ、おまえこそ誰が好きなんだ?」
「おお、そうだそうだ、おれんとうに聞くってことは自分が誰か好きな子がおるってことだら」
逆に突っ込まれるのは覚悟していた。
というより、聞いてほしかったのかもしれない。
「おれは・・・失恋しちまった」

とうとう浩樹は、苦しい胸の内を誰かに聞いてもらって重荷を減らすことを選んだ。
真剣な顔で浩樹の話を聞いた後で、賢治は言った、
「おまえそれ、まんだ失恋と決まっとらんじゃん」
「そうだな、ヒロキにしてみりゃ敵は大人だから勝ち目はないと思うかもしれんけど、耀子さんて人、そうすぐ結婚せんだら」
と、智も言った。

「けど、5歳も違うし・・・」
そう言って唇を噛む浩樹に、賢治が背中をドンとはたきながら言った、
「5歳ぐらいなんだー、クイーン・アミダラとアナキン・スカイウォーカーを見ろ!」
「おれはダース・ベイダーかよ」
「ライトセイバーの練習もしろ」
「どうせなら、ダース・モールのダブルライトセイバーがええぞ、空手にも棒術があるらー」

バカを言って笑いながらそぞろ歩いていると、苦しい気持ちはずいぶんと楽になった。
そう、まだ失恋どころか、「ひとり相撲」に過ぎない。
忘れようとしても無理ならば、こんな気持ちともう少しつきあってみるか。


                  7

9月の第4週で教室の引継を終えた竹本直美は、ちょっと虚脱状態になっていた。
それでも家族の世話やら、家事をこれまでよりゆっくりできるのはありがたいし、今までの無理が改めて実感された。
夫の浩三と一緒に食事をする機会が増えると、間が持てなくなって戸惑うのが正直なところ。
「・・・はぁ~」
思わずため息をついた直美に、浩三は声をかけた、
「何かスポーツでも始めちゃどうだ?」

スポーツか・・・そういえばもうずいぶん、そんな余裕もない生活をしていた。
学生時代にはバドミントンをやっていたこともある。
「ここらへんのバドミントンの、同好会にでも入れてもらおかな?」
「調べてみてくれ、夜ならできればおれもやりたい。 たまのゴルフだけじゃ運動不足だし」

夫の定年後にいきなりふたりで何かを始めようとあせるよりは、今のうちから共通の趣味を持つほうがいいには違いない。
そんな義務感と抱き合わせでは いまひとつ気乗りがしないけど・・・と思いながら、直美は調べておくと答えておいた。
パソコンを立ち上げて、それとなくあちこちのホームページを眺めて、『時空のはずれのあばら家』をのぞいてみる。
ダース・ユーミンの日記を見ると、『スポーツチャンバラ』という文字が目についた。

スポーツチャンバラ・・・直美も何かの TV 番組で見たことがある。
ダース・ユーミンがまた、いったい何をトチ狂って騒いでいるのか、と思って読んでみると、彼女は見学に行ったようだ。
なになに、剣道場の床が冷たくて、裸足では冷え性の私には無理だからあきらめる? 手首や肘も弱いし?
また軟弱なこと言っちゃって・・・体力に恵まれた直美は、苦笑しながら何日分かの日記を読んでみた。
彼女は馬のボロ(馬糞)拾いで痛めた肘がずっと治りきらないと嘆いている。

あ~あ、ずいぶん悲しそう、無理かどうかなんて、やってみなきゃわからないんじゃない?
そう思ったが、体の丈夫な自分には、健康に恵まれない者の気持ちは反対にわからないかもしれない、と思い直した。
紹介してあるスポーツチャンバラの本部の公式サイトにアクセスしてみる。
http://www.internationalsportschanbara.net/

英語で書いてあるメッセージは、田邊哲人(たなべ てつんど)会長の言葉らしい。
『世界の調和 人類100万年の夢 それがスポーツチャンバラ』

動画もあり、見ていくうちに直美はすっかり引き込まれてしまった。
ダース・ユーミンは、スターウォーズみたいにライトセイバーを振り回して、アクションのまねごとで遊びたかったらしい。
だがそれではただのお遊びではないか。
何事も基礎をしっかりやれば、自分なりに応用を利かせることができるようになり、ひいては実用となる。

普通程度の体力があれば、誰でもできるらしい。
自分なら、昔取った杵柄で、ひょっとしたら大会に出られるくらいにはなるかも・・・?
浩三よりも自分のほうが反射神経がよさそうだから、彼と一緒にやっても自分が不利になることはなさそうだ。
それどころか彼より早く強くなって、夫婦ゲンカも大いばりでできるようになるかもしれない。

車で30分ほどのところに、支部があるようだった。
直美は、TV で K-1 を見ている浩三に、ニコニコと声をかけた、
「ねえ、スポーツチャンバラ、やってみない?」
「スポーツチャンバラ?」
「剣道よりだいぶおもしろいみたい。 ちょっとそのサイト見に来て♪」

サイトをのぞき込んだ浩三は、異種戦の動画などを見て、目を輝かせた。
「実戦のシミュレーションか・・・おもしろそうじゃないか、おれは二刀流がいいな」
「まず最初は基本からだと思うけど」
直美は苦笑した。

地方の支部に問い合わせて、とりあえず見学させてもらおうということになった。
毎週日曜の夜、中学校で練習を行っているのでぜひどうぞと、応対してくれた男性はとても親切に説明して誘ってくれた。


                  8

日曜の夜、竹本浩三と直美は息子たちに留守番させて、その中学校へスポーツチャンバラの見学に出かけた。
体育館かと思ったらそうではなく、練習が行われるのは剣道場だった。
「中学校にこんないい剣道場があるのか・・・」
浩三は感心したように言った、
「おれたちの頃と比べて、ずいぶんぜいたくなんだな」

18時30分から20時までが少年部、19時30分から21時までが一般の部。
だがその日は、小学校が出校日だったということで、少年部は中1の男子生徒がひとり出席していただけだった。
指導者である黒帯の若い男性が、ていねいに道具やルールの説明をしてくれる。

「長剣借ります」
礼儀正しい中1の練習生が、得物を取り上げた。
「ほうっ・・・」
彼が振り回す『エアーソフト長剣』の動きを見て、浩三も直美も感心してしまった。
うなりを上げて素晴らしくシャープな動きをする。
「彼は手首が強いですからね、よくスナップが効いています」
黒帯が似合う師範代の 山脇(やまわき)先生が解説してくれる。

「それじゃ、ちょっと彼とやってみますから・・・」
唯一の防具である面をつけ、四角く囲ったコートの両端で両者は一礼し、中央まで進む。
そこで改めて一礼して、「お願いします!」
お互いに剣を右手に持って、相手の動きを読みながら攻撃を繰り出し、防御し、すぐさままた攻撃に移る。
3本勝負だが、軽く当たっただけでは点にならない。
スパーンと当たると1本になる。

中学生剣士のほうが、息が荒くなってきた。
フットワークも必要なので、かなりの運動量になるようだ。
動きが早くてよくわからなかったが、とにかく山脇先生の3本目が決まって両者は一礼、「ありがとうございました!」

「15分もやってると、だいたい1キロ走ったぐらいの運動量になります。 どうですか、やってみてください」
浩三がいそいそと面を借りてかぶり、得物を手にする。
「じゃあ進堂(しんどう)くん、ちょっと相手してあげて」
「はい」
進堂くんと呼ばれた中学生剣士が、ほとんど休む間もなく練習相手にかり出された。
気の毒に・・・ま、若いから大丈夫か。

剣道のような動きで、浩三はそこそこ攻防を繰り広げ、息を切らせて戻ってきた。
「奥さんもどうですか?」
勧められて直美は笑いながら、とにかくやってみることにした。
ダース・ユーミンはおびえて見学に徹したらしいが、直美はせっかくのチャンスは無駄にしない主義だ。

山脇先生が指導してくれるということで、かえって安心だった。
とにかく無我夢中で動き回った。
スパーンと足も頭もヒットされたが痛くはない。
攻撃を出してもすぐにかわされ、目にもとまらぬ早さで反撃をくらい、あっという間に終わった。
それでもハアハアと息が上がった・・・私もずいぶんなまってしまったものだ、と思う。

「割と長剣の使い方がいいですよ。 何かスポーツをされてますか?」
そう言われて、柄にもなく直美は照れた。
「学生時代にバドミントンをちょっとやってましたけど、もう今はずっと運動不足で・・・」
「バドミントンですか、あれは動きが似てるからいいですよ♪」

そのうちに中年男性が何人か現れて、柔軟運動を始めた。
やはり柔軟性は絶対に必要な要素だった。
その点は浩三よりも直美に分がある。
「ご主人、どうですか?」
背の高い男性に誘われて、浩三は好意に甘えて相手してもらった。
経験と身長の差を考慮して、得物は『小太刀』対『長剣』だが、それでももちろん浩三は勝てない。

「やっぱり相手が上背があるとやりにくいな・・・」
終わってからそう言って笑う浩三に、その男性会員は、
「途中で止めてしまわないで最後まで振ってれば、あれで届いてましたよ。 それに、片手のほうがリーチが伸びます」
とアドバイスしてくれる。

「車椅子でスポーツチャンバラをやってる人たちもいますよ」
山脇先生が、いろいろなプリントを見せながら説明してくれた。
各地で試合がたくさん行われている。
まあ自分たちは試合は無理でも、楽しく運動できるということはありがたい。

10月から入会することに決めて、浩三と直美は剣道場を後にした。
ふたりともなんとはなしにハイになっていて、家に着くまで話が弾む。
「これで、浩樹が空手で強くなっても大丈夫だな、だけどエアーソフトじゃケンカにならんから、木刀も買おう」
冗談交じりに言う浩三に、直美は笑って言った、
「木刀はひどいって~、せめて竹刀にしてやって」


                  9

冷夏で心配された稲作は、9月以降の暑さで丈は短いながらも各地でちゃんと結実したようだった。
ところが今年はあちこちで米ドロボーが出た。
サクランボ、ブドウほかの果物も、果樹園ではこれまでにずいぶん被害があったようだ。
米は農家の倉庫からゴッソリ盗まれたり、稲田から刈り取られるという被害まで出ている。
ドロボーは捕まらず、農家の人たちは、1年間の苦労を踏みにじられた悔しさをどこへぶつけていいのかわからない。

国内でも今年は様々な「事件」や「事故」があいついだし、9月15日には阪神タイガースのリーグ優勝が決定した。

だが、イラクやサウジアラビアのほうの人々にとっては、日本人とは比べものにならない辛い日常生活を強いられている年。
アメリカが落とした劣化ウラン弾やバンカーバスター(地中貫通弾)などで、イラクの大地はまた汚染されてしまっている。
日本までが自衛隊を派兵したら、どうなっていくのだろう?

これではいけない・・・たぶん、日本中のたいていの人がそう思っている。
それでもごく一部の勇気ある有志を除いては、自分が身を置く日常の中に埋没するように生きていくのが精一杯という場合が多い。
11月になって武藤耀子は、卒論が思うように進まないいらだちを、つい世の中のせいにしたくなって苦笑した。

そして、耀子が取った行動は、自分でも首を傾げるものだった。
シナノ化成で竹本浩樹の家の電話番号を聞いて、夜、電話してしまった。
相手はあわてている。
「・・・あの、耀子さんのケータイ、番号教えてもらえますか?」
「あ、はい・・・」

すぐに、浩樹からケータイにかかってきた。
「あ・・・すんません、なんかちょっと緊張しちゃって・・・」
相変わらずのシャイな浩樹の声に、耀子は自分がうれしくなっているのに気づいて不思議だった。

「どうも~。 お久しぶりです・・・突然電話してごめんなさいね」
「いえ、とんでもないッス!」
「そちら受験生で忙しいと思うんだけど、もしも24日、あいてたら、囲碁のトーナメント見に来ませんか?」
「囲碁の・・・トーナメント?」
「あ、一度電話切ってくださる? こっちからかけます」

耀子は浩樹に、『全日本実業団オープン囲碁トーナメント』のことを話した。
「おもしろそうッスね、行こうかな・・・っていうか、僕が行ってもいいんですか?」
「来ていただけると助かるなあ」
「23日は空手があるけど、24日ならあいてるから、行きます」
「あ、空手、やってるの?」
「はい・・・9月から道場がオープンしたもんですから」
「わあ、いいなあ、私も空手はあこがれなんだけど・・・」


                  10

いっぺん見に来ませんか、とノドまで出かかったのを、浩樹はなかなか言い出せない。
「見学、あり?」
耀子に先に言われて、浩樹はうろたえた。
「あ、・・・たぶんオッケー・・・と思います、聞いときます!」

浩樹のほうはなんかドキドキして、どういう会話だったのかよくわからないまま、電話が終わった。
手元のメモ用紙には、『11/24 12:00 シナノ化成』とある。
そちらの市民館で午後1時から大会が行われるということで、少し早めに行って会場の準備を手伝う。
お昼の弁当は浩樹の分も用意するということだった。

浩樹は自室から出て、夜風に吹かれるために外へ出た。
ドキドキを静めるつもりがあったかどうか、無意識に大きくため息をついていた。

耀子に聞きたかった、『西村慎次って人と、つきあってるんですか?』と。
もう少し正直に言えば、『好きなんですか? 結婚を考えてますか?』という質問だが、もちろん聞けなかった。
・・・ま、いっか。
チャンスがあったら、品野登美子おばさんに、それとなく聞くこともできるさ。
だがそれすら、怖くてできないかもしれない。
とにかくまず、空手の道場で見学のことを聞いてみなきゃ・・・。

翌日、放課後に戸川智と山本賢治に会うやいなや、浩樹は昨夜の電話のことを話した。
「よかったじゃん、ヒロキ!」「やったじゃん!」
ふたりから背中をどつかれて、ヒロキはよろけながら笑った。
「道場行ったら先生に聞いてみような!」
「きっと、ええて言うに」

「はよ(早く)その耀子さんて人、見たいな♪」
賢治がニヤニヤとして言うと、智が、
「おぉ、おれんとうはシナノ化成に、お前探しに行ったけど、耀子さん来とらんかったもんな!」
「空手着のお姉さまかぁ・・・う~、色っぺえな!」
「まだ入会するとは決まっとらんぞ」
浩樹を抜きにして、ふたりで勝手に盛り上がっている。

あの人の道着姿か・・・想像すると胸がキュンとなる。
だけど耀子さんが強くなってしまったら、おれ、騎士(ナイト)として出る幕あるかな?!


                  11

空手の道場でふだん浩樹たちを指導してくれるのは、G 市に在住の、花井照正の同門の先生。
花井は時折訪れるので、その時には模範組み手を見ることができる。
だがまだ浩樹たちは初心者なので、どういうことが行われているのか、見てもよくわからないというのが本音。

きょうは武藤耀子が見学に来ている。
道場の一番後ろで、用意されたパイプ椅子に行儀良く腰掛けて、熱心に練習を見ている。
若いきれいな女性が見学しているから、それだけでもう浩樹のみならず、練習生全員の動きが生き生きとしていた。
浩樹は、自分の動きが固くなり過ぎてギクシャクしていないか心配だった。

会員には男子生徒ばかりでなく、3名の小学生の女の子と、2名の女子中学生もいた。
また、夜には一般の部として何名かの大人の男性が『型』の練習を行っている。

「・・・いかがですか? 大人のかたは多くは、一般の部で『型』だけ練習されるんですが」
黒帯の指導者に言われて耀子は、
「空手はやったことないんですけど、もし私にもできるなら、こういう、今見せていただいたような練習がしたいです」
と答えた、
「でも見たところ、私が最年長みたいですね・・・まずいかな?」
「いやそんなことは全然ないです」
指導者は即座に答えた。

「私たちの道場は、誰にでも空手をやっていただきたいと思っています」
目的はそれぞれ別でいい、試合に出るのを目指してもよし、美容と健康のためでもよし、ということだった。
「まあ、おいおい人数も増えてくると思いますし、武藤さんのような人がいれば、いい宣伝になりますからね」
と、指導者は笑いながら付け加えた。

「ありがとうございます、よろしくお願いいたします」
耀子も笑いながら言った。
やった! と、浩樹は心の中でグッと拳を握った。
たぶん、3月末までは一緒に練習できる。
4月からは寂しくなるけど、同じ道を目指しているということが心の支えになるだろう。


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11月24日午後、『全日本実業団オープン囲碁トーナメント』はいよいよ開催の運びとなった。
選手を降ろされておもしろくないヒンシュクだったが、主催者あいさつなどの役目を振られて、機嫌がよくなった。
マイクテストなどしたり、用もないのに給湯室へ出入りしたり。
さらに、カラオケの機械があるのを見つけて目を光らせた。

「え~~~、皆さん!」
ゴホンと咳払いをすると、わいわい賑やかだった会場が一旦静まった。
「・・・あー、本日はお日柄もよく・・・えーと、ほいで何だったかやー? あ、遠路はるばる来てもらったでのん、ありがとさま!」
途中から三河弁になったので、会場から笑いが起こった。
「ええぞー社長!」「よっ、日本一!」
昼食どきからすでにアルコールのはいっている連中から かけ声がかかる。

「ほいじゃ、ただ今から、『全日本実業団、えー、囲碁、オープン・・・トーナメントを開催いたします! まずルールだけどが」
ヒンシュクは小池老人にマイクを渡して、
「あんたほい、説明しとくれん」
「わしがかん?」
仕方なく小池老人はマイクを受け取って、『ペア碁』のルールを説明した。
「・・・以上、とにかく相方(あいかた)に教えないように。 わからんことがあったら、また聞いてください」

8台の碁盤を、抽選で当たった2組4名ずつが取り囲んで、とりあえずは静かに対局が始まった。
ペアの組み方はそれぞれの思惑があって、各チームそれぞれの作戦があった。
2組の棋力(きりょく)が平均になるように組んできたチームもあれば、一方を捨ててひと組を重視するところもある。
また、ふた組とも頼りなくてもとにかくお祭り好きで参加したチームもあった。

シナノ化成のチームは、登美子と小池老人が示し合わせて、一も二もなく耀子と浩樹をペアにしてしまった。
耀子がアメリカへ行く気がないことをまず登美子が知っており、小池老人にもそれが伝わっている。
それで、ちょっと粋な計らいをして浩樹に思い出を作ってやりたいという、年輩者の配慮だった。

きょうまで忙しくて、練習をする暇もなかったので、浩樹はペア碁も大会も生まれて初めて。
もちろん、もうあがりっぱなしだ。
自分が打った悪手のせいで 耀子がう~んと考え込むのが申し訳ない。
だが、考え込む彼女の横顔をそっと盗み見るとまたドキドキする。

打ち始めて数手も進むうち、だんだん賑やかになってきていた。
「あ、私の番やなかったぁ? すんまへん、まだ置いてまへんでな! ほなモリさん、早いとこ打ってな~」
ひときわ騒がしい声は、囲碁の強い従業員を連れてきた品野雅恵。
せっかくのパートナーのよい手を台無しにする恐れが十分ある。

「あ、なんばすっとね、そこは『コウ』たい!」
「ほうだったきゃ?」
あっちの碁盤から九州と愛知の方言が聞こえたかと思えば、
「ここしかないっしょ」
「うわ、そこ置かれたらもぉ~こっちはええとこなしですがな~っ!」
こっちでは北海道言葉と関西弁も飛び交っている。

15分も経った頃、いきなり会場に、キィーーーーンというマイクの音が響き渡り、一同は驚いて耳を押さえた。
次に聞こえてきたのは ヒンシュクの声だった。
「え~、ほいじゃあひとつ景気づけにワシが歌を歌うでのん」
続いてかなりのボリュームでカラオケのイントロが流れる。

「♪いたこーのー い~たろぉ~~おちょっとみな~れ~ばぁ~~~♪」
ヒンシュクの割れ鐘のような声に、会場全体からブーイングの嵐が巻き起こった。
「うおい、ヒンシュク、うるさてできーせんぞ!」
「あ~~やかまして集中できんがや!」
登美子があせってボリュームを下げに走る。

普通の対局と違って、ペア碁だから自分の手番が来るまでに3手の間がある。
待っている人、自分の手を打った人が、盤面をほったらかしてわらわらと何人か、カラオケに集まってきた。
4人ともちゃんと座っているところもあったが、中には4人ともカラッポになっている碁盤すらある。
「どれ、ワシに貸しん」
「こっちが先だぞ」
碁盤のほうから、「お~い、どこへ行くだ、ちゃんと碁を打て!」
その間もヒンシュクの歌は続いている。

とにかく1曲終わったところを、小池老人がマイクを取り上げて言った、
「はい、いっぺん碁盤へ戻ってください。 予選が終わったら、負けた人だけちょこっとね・・・」
年の功というか、やみくもにカラオケを禁止しても収まらないことを見越している。

「ほいじゃワシがあと2~3曲・・・」
と手を伸ばすヒンシュクに、
「ええけどが、ボリュームを落とさんとみんな碁が打てんでのん」
そう言って小池老人は、思いっきり音量を落とした。

耀子と浩樹はちゃんと碁盤の前にいたが、あきれて笑っていた。
対局の相手である、和菓子屋さんのチームがふたりで帰ってくる。
その時、市民館の職員である主事さんが、何事かと部屋にはいってきた。
「ほい、カラオケは使うという申請が出されとらんでのん」

「おいおい、クラさん、そう固いこと言わんでも・・・まああんたもちょっとおはいりん、お茶と饅頭もあるで」
ヒンシュクが言葉巧みに 主事さんを引っ張り込む。
「書類は後でちょこっと直してまやええで・・・それよりあんたほい、1曲歌っとくれん♪」
「なんだん、ワシが歌ってええだかん?」
「おぉ、頼むワ。 あんたの歌はうまいで、景気づけになるでのん」


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主事さんが演歌を1曲歌って事務室に引き上げてから、ほどなくひと組から声が上がった。
「あかん、とうとう負けちゃった~♪」
「ほな、歌いに行きまひょか」
「トーナメントの表に、とりあえず印つけとかなねー」
「僕はほかの盤面を見に行きますで・・・敵情視察や~」
きょうのメンバーはみんなそう長考はしないが、ここの対局は恐ろしく決着が早かった。

8組のうち、またひとつ決着のついたところが出て、何人かカラオケにエントリーする。
デュエットで歌う連中もいたが、カラオケの順番待ちでは手持ち無沙汰になるので、しだいにほかの盤面を観戦に行く人が増える。
わいわいガヤガヤと騒がしさが増してきた。

囲碁では、エチケットとして観戦者は手や口を出してはいけないことになっている。
だが素人囲碁では、それは完全に守られることは珍しい。
練習会などでは、寄ってたかって口を出し、手を出し、だれの碁かわからなくなってしまうことはザラにある。
大会ということで、きょうはさすがにはたから手を出す者はまだいなかったが、静かにはしていない。

「あっ、今、仲間に合図を送ったな?」
「そ~んなことしとらんぞ、何を証拠に・・・」
「2へん咳して、いっぺんハナをすすったら、この人が『二の一』へ置いた!」
「偶然だて!」
ひとつの碁盤のところで騒ぎが持ち上がった。

「なんだなんだ、どうしただ!」
ヒンシュクが仲裁に入ろうとして、歩いてくる。
「こっちの人が、咳とハナミズで合図を出しとるぞ、インチキだ」
「言いがかりだて、誰だってあそこで隅が生きられたら困るで、『二の一』に打つに決まっとる」
「どこだん」
近づく時にヒンシュクは座布団にけつまづいて、よろけて碁盤の縁に手をついた。
石の一団がグシャッと移動してしまった。

「あ~っ、ぐっちゃぐちゃにしちまった、どうするだ、二度と元に戻らんぞ!」
「いや、心配せんでもええて、ちゃんと戻せるで・・・ここが黒で、こことここに白・・・」
有段者ともなると、何手分もさかのぼって石を並べ直すことができる。
だが初心者はそれを見ても、キツネにつままれたようなものだ。

「そんなとこに白はなかったと思うが」
「いや、あった」
押し問答で泥沼化してくる。
騒ぎを大きくしたヒンシュクは、知らん顔ですでにその場を離れている。

「あれ~っ? ここんとこ、白がひとつ余分に置いてあるよ」
また別の碁盤のところで声が上がる。
「さっきおれがあっち行った時に、増やしたな」
「そっそんな失礼な! だったら白と黒の石の数を数えてみい」
「よぉ~し・・・いや、こうもたくさんじゃ、数えきれん。 アゲハマでごまかされたらしまいだ」
「何だと~?」
かなり酒が入っている連中だったので、ひとりが立ち上がってよろめいて碁盤をひっくり返し、大騒ぎになった。

となりの碁盤がとばっちりを受けて、石が全体にズレてしまった。
形勢が負けていたほうのチームは喜び、勝ちを確信していたほうは怒る。
座布団で頭をはたきあっている連中もいる。
「あ~~、痛い痛い!」
と、酔っぱらいのオッサンがひとり、5メートルほど先から大げさに転がってきて、耀子のところへ来た。

ドサクサまぎれに耀子のひざに頭を乗せて、ついでに足・腰となで回す。
浩樹は頭に血が昇って立ち上がった。
この無礼者に 正拳突きをみまってやるか!
そう思った時だった、
「くらえっ、碁笥(ごけ)チョーーーップ!!」
耀子が両手で持った碁笥で、オッサンの頭をはたいていた。

「甘い、甘いて、ヨーコちゃん!」
後ろから声がして振り向くと、ヒンシュクが満面に笑みをたたえて、ふたをはずした碁笥を五つも持っている。
「碁笥爆弾!!」

耀子と浩樹が止めようとしたが、遅かった。
黒白(こくびゃく)の碁石が宙に舞い、人々の頭上に、碁盤の上に、湯飲みの中にバラバラと降り注いだ・・・。


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その後、「全日本実業団オープン囲碁トーナメント」が開催されることは、二度となかった。
メンバーはすでに次のお祭り騒ぎを画策していたし、市民館からは公共施設に、「要注意団体」の手配書を回していた。

あの日は、乱闘事件(?)が収まるころ、無責任な連中の第1陣は、タクシーに乗り合わせてカラオケボックスへ向かった。
ヒンシュクたちにもケータイで連絡が入り、会場の後かたづけもそこそこに、第2陣が移動してカラオケ大会に参加した。
耀子、浩樹、登美子、小池老人ほか正気を保っていた連中は、雑巾やホウキを持って後片づけを終えてから合流。

人数が多いので、カラオケではいくつもの部屋に別れて、お互いに行ったり来たり。
さまざまなジャンルの曲が飛び交い、ドンチャン騒ぎで盛り上がる。
浩樹は耀子の歌声にうっとりと聞き入り、自分でもサザンオールスターズの『TSUNAMI』を熱唱した・・・思いを込めて。

夜更けにお開きになるころ、北海道の牧場のグループが言い出した、
「来年の夏は、このメンバーで、うちの牧場でポニーの草競馬大会っしょ!」
「ハンデをもらわなかんなー」
「ほうだほうだ、あんたんとうは毎日、馬に乗っとるでのん」
まったく懲りない中高年たちだった。

だが・・・と竹本浩樹は思った、このパワーは素晴らしい!
自分たちの年代は、同年代の者としかコミュニケーションを取ろうとしない者があまりに多い。
また中高年も、若者を敵視したり、無視したり、おもねったりで、まともに向き合おうとしないことが多いんじゃないかな。
老弱男女、みんなで楽しくやりゃあ、いいじゃないか。

同じ時代に、同じ地球という船に乗り合わせた仲間じゃないか!


+++++++


エピローグ


家からもうどのくらい歩いてきただろうか、道はずいぶん細くなって、山あいの空気がひんやりと心地よい。

うらうらと照らす陽光、田の土のにおいと、ささやかな水の流れと、道端の草。
緑の中には レンゲソウのピンク、タンポポの黄色い花、名も知れぬ小さな白い花。
コジュケイの鳴き声がにぎやかに響く、「People play(ピープルプレイ)! People play!」
そんな中を歩いてきたあげく、山の切り通しの道にはいったのだから。

その切り通しのあたりの色は、薄い紺色。
・・・実際にはそんな色であるはずもないだろうが、記憶の中ではいつもそこは青く沈んでいる。
そして、細い切り通しを抜けると、目の前には木々に囲まれた畑が見えた。

1枚は、赤と紫の、もう1枚は、オレンジと赤と黄色の畑だった。

*******


・・・あの記憶の中の風景。
あれからどれくらいの年月が経ってしまったのだろうか。
竹本直美は、キーボードに走らせていた指を止めて、かすかなため息をついた。

直美は最近になってエッセイを書き始めた。
自分がどういうわけか、ダース・ユーミンに対抗意識を持っている、その理由がやっとわかったから。
それはちょっとした嫉妬心だったようだ。
苦労がなさそうに見える彼女が、気ままに文章を書いて自分のサイトに発表しているのが、くやしかったんだ。

それなら私も、書きたいことを書けばいい。
無我夢中で生活してきたこの20年ほどを埋め合わせて、おつりが来るくらい、楽しんで生きよう。
・・・そして、見失ってしまっていた自分の心を取り戻そう。

人生には無我夢中で生きねばならない時もある。
だけど義務やこだわりに捕らわれすぎて自分を見失えば、それは結局自分のエゴにつながるのかもしれない。
反対に、自分をしっかり見つめて生きることが、この世界にささやかに貢献することになるのかもしれない。


・・・幼い日に遊んだあの場所はもう、この世に存在しない。
あの花畑に咲いていた花は何だったのか---おそらく赤と青紫のほうはアネモネ、オレンジと黄色のほうはポピーだったろう。
それを咲かせた人も おそらくもうこの世を去っているだろうから、確かめるすべはすでにない。

それでも、記憶の中にある限り、それは存在するのだ。

人生は旅をしてるようなもの。
道に迷ってしまうことが、なんと多いことだろう。
それでもふとした瞬間に、何かのキーを見つけて、なつかしい時空へと帰ることができる。

早春の水たまりを渡る、清冽な風がたてるさざ波に、夏の陽炎(かげろう)のあちらに、
秋の落葉樹の下に積もる落ち葉の色に、冬の夜の常緑広葉樹の、まっ黒な葉っぱをつけた枝先に、

そんななんでもないところに、キーはさりげなくひっかかって、あるいは落ちている、
雨に濡れたアスファルトの上の、ピンク色のセロファンのおもちゃのように。

どこかでそんなキーを見つけたら、いつでも帰ることができるのだ。

たとえ日常からひどくかけ離れているように思えても、心の中の道を見つければまたいつでもたどりつける、なつかしい世界。
その世界にあっては、人が人に威張ることなど、どれほどの価値があるというのか。
自分が今までこだわっていたことが、なんだかひどく無意味な、無味乾燥なことに感じられてきた。

・・・こころが、ふわっと、楽になる・・・
浮かび上がって、地球を外から眺めて、その中のちっぽけな自分を見つける。
私ハ、マダコノ世界ニ、イクラモ恩返シヲシテイナイ

そう、たぶん生きることの意味は、宇宙への恩返し。


*******


水田に 緑の稲の波が風に吹かれてうねりを作る、真夏の陽光に輝きながら。
道端の草むらからは、ギ~ッチョン、ギ~ッチョンと、キリギリスの音。

ねえ、お父さん、もうちょっと泳ぎたかったのに・・・
ダメだ! あんまり長く海にいては病気になるといけない、怪我もするだろう。

稲田の波がうねる、光る。
あの波の上を泳いだら どんなに気持ちがいいだろう。

丘の上の空には、海の上にあったのと同じ入道雲があった。
いつか、あの雲のある下のところぐらい 遠いところへも行ってみよう。
そこにはどんな家があって、どんな人たちが住んでいるんだろう。

・・・友達になれるだろうか?
そこへ行って友達ができるといいな。
きっとできる。



                            =完=



あとがき


やった、ついに(とにもかくにも)完結したっ?!

・・・いやどうも、失礼しました、なにしろ生まれて初めて書いた、そこそこの長さの物語なんです。
読んでくださってほんとうにありがとうございます。
ひとことでも感想をいただけたら、もっとうれしいです。(←コラ)

「一生に1作は書くぞプロジェクト」として5月に書き始めて、約7ヶ月。
昔から考えていたストーリーとは大幅に違った小説(?)になりました。(笑)
予定と同じだった部分は、ヒンシュクがモーターグライダーで高校生と一緒に海に落ちる部分と、囲碁大会のドタバタだけ。

五里霧中で書き始めてから、なるべく自分と違う人間を描きたい、という目標が生まれました。
それでも自分も出たかったので(笑)、ダース・ユーミンというのが出てきますが、あれは私よりひどい。
で、ここでもまた自分がシャシャリ出ようと・・・もとい、内容にちょっと補足の必要がありまして。

まず、「この物語はフィクションであり、人物・団体名・地名などは実在のものと関係ありません」。
微妙に関係あるぞと思われたら、それは気のせいです。(笑)

また、実際のメロンの温室やハウスは、文中にあるほどたやすく侵入できません。
さらに、浩樹が走った道や街のようすは実際のものと異なります。
追体験ツアーをしたいかたは、宿泊できるスーパー銭湯の場所が違いますのでご用心を。

もうひとつ、重要な補足があります。
浩樹がいろんな人たちと出会っていくのが、ご都合主義のように感じられると思います。
でも、現実はしばしば、もっと奇跡的なものであったりします。
人が導かれる時というのは、偶然というにはあまりにできすぎじゃないか、というくらいのノリ(?)で進むもの。
自分が○○年前に体験した奇跡は、今でも信じられないようなものでした。

あの時、1本前か1本後のバスに乗っていたら、あの女の子との再会は不可能だったに違いない・・・。
その時刻のバスに乗ったのは、キャンパスで人に道を聞かれて案内したから。
さらにバスで行くことにしていたのは、アテにしていた車で通学の知人が都合が悪くなったため。
しかも遡ると、あるクラスメートが、浪人して入学していたのでなければ実現しなかった、まで原因が遡行(そこう)します。
その人のお母さんが偶然目にとめた小さな記事から連鎖した、運命の流れでした。

ま、これはただの言い訳といえばそれまでですが、そういうことってほんとにあるんだよ~~!
花井照正さんのモデルとなった、H さんとの出逢いもそうでした。

この農業を営む空手家・ H さん、そして親切に取材に応じてくださった、スポーツチャンバラの Y 先生とお弟子さんたちに、心からお礼申し上げます。

ダース・ユーミンは、その後、スポーツチャンバラの指導者のかたにシューズの着用を許されたため、入会したそうです。(笑)
なんとかの冷や水にならなきゃいいのですが。

・・・さて、一生に1作は書くという長年の夢が叶ってしまったので、これからどうするか?
1文字替えれば済みますね、「一生に2作は書くぞプロジェクト」。(殴)

読んでくださったかた、ほんとうにありがとうございました!

追記:

モーターグライダーの許可制について。
ヒンシュクおやじが最初に乗り始めた頃は、そういう制度がありませんでした。
本文にはうっかり「無免許」と書いてしまいましたが、ご了承ください。



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