15: ヒンシュク・4
     (初回掲載・2003年9月25日、再掲載・2005年1月31日、
      2005年10月21日・一部分修正)

おもな登場人物:

      品野 俶臣(58)シナノ化成・社長、あだ名は「ヒンシュク」
    
      品野 登美子(53)ヒンシュクの妻

      品野 義男(29)俶臣・登美子の息子、シナノ化成従業員

      武藤 耀子(22)登美子の姪、大学生

      小池 徳次(80)品野家の近所のじいさん

      西村 洋一(29)義男の友人、塗装職人

      西村 慎次(26)洋一の弟、耀子の先輩

      竹本 浩三(47)保険代理店経営、小池老人の囲碁仲間

      竹本 直美(45)浩三の妻、学習塾講師

      竹本 浩樹(17)浩三・直美の息子、高校生

      戸川 智 (18)浩樹のクラスメート

      花井 照正(33)農業を営む空手家
    
      品野 数由(56)ヒンシュクの従弟、ナンバー機材社長

      品野 雅恵(54)数由の妻

      ダース・ユーミン 竹本直美の知り合い



第4章:ヒンシュク、推理小説にハマる


                  1

やっと梅雨も明けたかという、7月下旬。
高校生の浩樹も夏休みにはいっているのだが、アルバイトを増やしたので、囲碁に来るのはやはり土曜日だけ。
耀子は、近所の生協の店で臨時のアルバイトを始めたが、土曜日はちゃんと空けてある。

きょうも5人揃って シナノ化成の事務所で研究会である。
碁盤も折り畳みの19路盤をひとつ増やして、雰囲気はいっちょまえになってきた。
そこに電話が鳴った。

「はい、シナノ化成でございます」
登美子が出ると、いきなりものすごい名古屋弁が聞こえてきた。
「もしもし、トミちゃんきゃ? 名古屋だけどよう、トシさんおるきゃ?」
ヒンシュクの従弟の、品野数由(かずよし)である。
声が大きいので スピーカーフォンにしてなくてもまわりに聞こえる。

呼ばれる前に ヒンシュクは登美子に手を出して、コードレス電話を受け取った。
「ほい、カズさん、なんだん?・・・あ? こっち来るだかん? ええよ、雅恵(まさえ)さんも来るだら?」
今どこだん、と聞くと、すでに東名高速を降りたという。


                   2

「それじゃ、きょうはもう解散したほうがいいかな?」
耀子がそういうと、浩樹も腰を上げた。
「なんの、ええだよ、それより椅子を持ってこなかんな・・・あんたんとうは続き打っとりん」
ヒンシュクはそう言って、デスクのところから椅子を2脚、ゴロゴロと移動してきた。

「ほいじゃ、夕ご飯にお寿司でも取るかね? それとも後でみんなでどっか食べに行く?」
と、登美子がヒンシュクにたずねた。
「おお、みんなで安~いとこへ行くぞ! 小池さんも行くだら?」
「いや、ワシは晩飯の頃までにゃあ帰るでええよ。 ばあさんが寂しがるとかんでのん」

少しして、品野数由・雅恵が到着して、名古屋弁と、にぎやかな関西弁が事務所にはいってきた。
「やっとかめだなも(久しぶりだね)」
「ど~も、ご無沙汰しとりますぅ、いきなり押し掛けてすんまへんなあ、うちのがど~してもこっちゃ来るゆうて!」
「ほい、まあそこらへんへ適当にすわりん」
「ちらかっとって悪いねえ、今、お茶持ってくるでね」
「いえいえ、ど~ぞおかまいなく・・・あ、あんた、お土産持ってるやろね?」
「うん、あ、これよう、てゃーしたもんだないけど、食べてちょう」
各種方言が入り乱れて飛び交い、耀子と浩樹はあっけにとられて、顔を見合わせた。

品野雅恵は次に、小池老人に、そして耀子と浩樹にもニコニコとあいさつをした。
「こんにちは、ど~も、お邪魔いたしますぅ、ヨーコちゃん、こっちのおとうさんとおにいちゃんはどちらさんやった?」
「あ、近所の小池さんと・・・」
「せやったわ! 前にいっぺんお会いしたことあるわ! どうもどうも、名古屋の『なんば機材』ですぅ」
「おみゃあ、『なんば機材』だにゃあて、『ナンバー機材』だがや! ワシの名前のカズが数字の数だもんで・・・」
「そんなんよろしがな、ほな名刺でもお渡ししたらええがな」
「名刺なんか、いちいち持っとらすきゃ」
と、なんともけたたましい夫婦(めおと)漫才が繰り広げられるので、また耀子と浩樹は顔を見合わせた。

「あ、とにかく、小池さんがみんなに囲碁を教えてくださってるんです」
「あらまあ~~、囲碁! すごいわぁ、そんな難しもん、やってはるの! おにいちゃんも!」
「あ、はい、あ・・・僕は、竹本といいます・・・」
「まぁ~~、偉いわねえ、若いのにおじさんたちと一緒に!」
機関銃のような、怒濤の関西弁によって、なんとか一座の紹介が済んだ。


                   3

「あのよう、きょう来たのはよう・・・これよう・・・」
と、数由は柄にもない照れかたで口ごもりながら、書類鞄の中から数枚のコピーの束をふたつ取り出した。
隣で雅恵が、眼鏡の中で目をキラキラさせて笑っている。
「ん? 何の書類だん?」
と、ヒンシュクが手を伸ばし、ひとつを登美子に手渡す。

「実はうちのがな、推理小説、書いたんですわぁ!」
雅恵が自慢げに解説する。
「推理小説? カズさんあんた、小説なんか書けるだかん!」
「ん、まあ、てゃ~したことにゃあけどよう、ふた月がかりできゃあた(書いた)もんで、読んでまおうと思って・・・」
「そうなんですわ~、まあーここ2か月な、暇さえあったらパソコンに向かって、何やってはるの、ゆうたら!」

そして、ついに完成した「推理小説」を誰かに読ませたくて、何部もコピーを作って押しつけているらしい。
「まずな、私が見せてもろたんですわ! そしたらこれがまあ、案外イケてますのや!」
ちょいと、という感じで雅恵は右手を 上から下へいちど振った。

わざわざコピーを届けなくても、メールにテキストファイルを添付して送れば、速達より直接持ってくるより、うんと早い。
しかしそれでは、ちゃんと読んでもらえるか、また、いつ読んでもらえるかわからないということらしい。

「ほいだもんでよう、読んでまえるきゃ? そのあいだ、ワシら、ここで待たしてまうで」
「えぇ? 今、ここで読むだかん?」
「そうですがな~、ほったら読んではる時の、顔の反応も見れまっさかいな」
まるで 容疑者の表情を見張る刑事のノリだ。
お土産の「きしめんセット」をもらってしまった手前、むげに「いやだ」というわけにもいかない。
仕方なくヒンシュクと登美子は、その場で読み始めた。

タイトルは、『大逆転殺人事件』。
表紙には、お世辞にもうまいとは言えない線描で、チョークの線で囲まれた死体らしきものが描かれている。
ヒンシュクと登美子がそれぞれ表紙をめくると、数由と雅恵がマンツーマンではりついて、のぞき込むようにして見る。
コピーと読み手の顔を見比べるので、読みづらいことおびただしい。

物語は、小さな家の中のガランとした部屋の床に、全身打撲でひとりの男が死んでいる、その現場の検証から始まっていた。
そして警察が引き上げた後、語り手の建設業者が独白をする。

上下さかさの小さな家を建てた建設業者が、借金取りをおびき寄せて その中へ閉じこめて殺した。
トリックとしては、屋根の一部分にザイルを仕掛けてあって、クレーンで一気につり上げる。
たくさん酒を飲まされて 酔いつぶれていた借金取りは、家具ひとつない部屋が逆転して、落ちて死ぬ。

そのあと、家は屋根を上にした状態で地面に置かれる。
現場の回りには工事中からずっと、青いビニールシートが張り巡らしてあって、家がさかさだったとは誰も知らなかった。
仕上げに屋根の細工をはずして、そこに煙突をつけて痕跡を隠す。
さかさの家を支えていた、金属の支持架も撤去してしまう。
警察もそのトリックは見破れなかったので、建設業者は借金を踏み倒して、めでたしめでたし。
(つまり、「大逆転」するのは建物だけ。)


                  4

「・・・・・・」「・・・・・・」
「どやった? おもろかったでっしゃろ? 思いも寄らんすごいトリックで、ビックリしはったやろ?」
「あ、ああ、ほうだねえ、推理小説ていうのはまあ、ずいぶん奇想天外なこと考えるだねえ・・・」
と、推理小説をほとんど読んだことのない登美子が、お義理の感想を述べる。
心の中で、被害者がもし死ななかったら 大変なことになるだろうに、と思ったが、それは言わずにおいた。

そこへヒンシュクが、
「ほいだけどのん、警察にわからんで済むかのん? どえらい音がするらー」
「あ、なるほどねえ、ほなあんた、夜中にえらい音がしてもだ~れも気づけへんほど山ん中や、いうことにせな」
と、さっそく雅恵がメモ帳を取り出して、書き込んでいる。
作品では、舞台設定はほとんど書き込まれてないので、読者は漠然とどこかの郊外を思い浮かべるくらいだった。

「これ、あんたの願望をそのまんま書いただないか?」
ヒンシュクがぼそっとつぶやく。
「ちょっと、お父さん、やめときんそんな失礼なこと・・・」
登美子はあわててヒンシュクをつついた。
幸い名古屋のふたりには聞こえなかったようだ。

「ほな次に、ヨーコちゃんとこっちのおにいちゃん・・・えと、竹本くんやった? 読んでもらえまっか?」
ヒンシュクがページをめくる時に 指にツバをつけていたのを見ていた耀子は、登美子のほうのをもらった。
耀子と浩樹の読むのを、また名古屋のふたりがのぞき込む。
「まぁ~、ここの人たち、みんなポーカーフェースやねえ・・・」
と、ため息混じりに雅恵はつぶやいた。

読み終えて、耀子はまず、慎重なようすで聞いた。
「この小説、自費出版するとかの予定はあります?」
そしてちょっと気の毒そうに言った、
「このトリック、全く同じじゃないけど、昔、読んだことあります。 だからどこかへ発表するとなるとこのまんまじゃちょっと・・・」
「えっ、どこでー?」「んなアホな・・・ほんまでっか!」

「ある超有名な作家の、どの本だったか忘れたけど、トリックとちょっと似てるんです」
一時期、耀子は その有名作家にハマっていた。
「もちろん、古今東西の推理小説のトリック全部をチェックするなんて、普通はできないから、トリックのアイディアのバッティングはしかたないんですけど・・・」

耀子はちょっと居住まいを正して続けた、
「私の尊敬する 吉村達也さんは、トリックそのものよりも、動機だとか人の心の意外性が肝心だって言ってます」
「ほうほう、動機だとか、人の心の意外性、と」
雅恵がまたメモを取る。

「それと、たっちゃん先生は・・・あ、吉村達也さんのことだけど、推理小説は『2回半ひねり』までがんばるって」
「2回半ひねり?」「話が、そない、ひねくれてますの?」
思わず笑いながら耀子は答えた、
「いえその、アマチュアの作品では、何かトリックを思いついたらその勢いだけで書いちゃうものが多いけど・・・」
耀子は、「たっちゃん先生」のサイトで見たコメントを思い出しながら続ける、
「よっぽど奇抜なことを思いついたつもりでも、世の中には同じことを思いつく人がいるから、そこからひねるんです」
「ふ~ん・・・」「ははぁ~~~」

「あと、もしバレずに済んだとしても、借金は借金として残ると思うんです。 それにもうひとつの問題として・・・」
と、耀子が読者代表として、問題点を指摘した。

「これは『推理』というよりは『犯罪小説』ですよね、だから、動機を、怨恨にしたほうが説得力があるんじゃないかな」
「う~ん、ほっきゃ」
「ほな、そこんとこ、もうちょい考えて書き直さなあきまへんな!」
と、雅恵がすかさずメモを取っている。
「そのためには、登場人物の性格だとか、考えたこと、気持ちなんかをていねいに書き込んだほうがいいですね」

「そこまでせなかんきゃ? こ~りゃめんどくせゃーてなあ・・・ワシ、まあやめるでよう」
「なんやのあんた、そんなんアッサリ、出版や新人賞あきらめんの?」
いつのまにか、新人賞を狙う話になっている。
「どうもなあ・・・ワシには向いとらんかもしれんわ」

そこへ意外にも浩樹が、遠慮がちに言葉をはさんだ。
「あの、僕、おもしろいと思いましたから・・・出版とかしなくてもちょっと書き直すだけはしたほうが・・・」
「ほんま! ありがとねえ、竹本くん」

「ほいじゃ、ワシはそろそろ帰らなかんで、ありがとさま。 みんなはゆっくりしてきんよ」
と、タイミングをはかって小池老人は、「小説」を読まずに逃げた。
さすがに年の功・・・。


                  5

ヒンシュク・登美子夫妻の息子の義男は、友達と飲み会があって出かけていた。
それで、事務所にいた6人で、中国料理店でディナーという運びになった。
「さあ、みんなで好きなもん注文せりんよ」
と登美子が言うと、
「おお、この『ファミリーコース』ていうのが、いろんなもんがついとってええぞ!」
ヒンシュクが お値打ちなコースを指さして、みんな笑いながら同意した。
「ノンアルコール・ビールで乾杯するかん?」「ほうだねえ」「そうしましょ♪」

「ところでカズさん、あんたほい、囲碁は、やらんだかん?」
「囲碁きゃ? 五目並べしかやったことないがや。 むつかしいだら?」
「ちょこっとだけ覚えりゃ、遊べるようにはなるぞん、上見りゃきりがないけどのん」
「ほな、私らでもでけるようになりますの? 登美子さんもやってはる? あ、来た来た、お料理来ましたで!」
丸テーブルを囲んだ6人で、回転テーブルの料理を取り分けながら にぎやかに方言の応酬が進む。
もっとも、にぎやかさのほとんどは3人、特にそのうちのひとりかもしれない。

無口な浩樹を気遣って、耀子が時折、話しかける。
「雅恵おばちゃんみたいな 座持ちのいい人って、うらやましいんだよね、私・・・自分にはとても無理」
浩樹は笑ってうなずいて、
「なんだか、おじさん、名古屋の人んとう(人たち)に囲碁やらせたがってませんか?」
「うん、きっとそうだよ! 人を巻き込むのが好きだから」
「でも名古屋とこっちじゃ、あんまり打つ機会がないと思うけど・・・」
「う~ん、でもあの顔は、なんかたくらんでるような気がする」

若いふたりに観察されているとも知らず、年輩の4人は話の花を咲かせていた。
「まぁ、そういうたらそうですわな、将棋やったら えらいぎょうさんの駒の名前と動き方、覚えなあかんけど」
「ほうだて、それがまた裏返ってややこしいだけどが、囲碁なら白と黒しかないでのん!」

登美子もヒンシュクに加勢して、
「それにまあ、どこへ置いてもええていうもんだで、私でもなんとか遊べるようになってきただに!」
「ほうきゃ、トミちゃんもやっとらっせるきゃ」
「ほな、どっちゃが強いの?」
そこで耀子と浩樹が、「こっち!」と登美子を指さした。


                  6

飲酒運転の罰則が強化されたので、たいていの飲食店は大打撃を受けている。
現にヒンシュク一行も、車2台で来たので、ノンアルコール・ビールで我慢した。
寂しいという向きもあるが、交通事故が激減しているのだから、これは素直に従うべきだろう。

会食がお開きとなって店を出て、名古屋の夫婦はそのまま帰路につくことになった。
「ほいじゃ、気いつけて・・・」
「ごちそうさん、おみゃあさんがたも、たまには名古屋へ来てちょうよ」
「そうですがな、その時までに、こっちゃも囲碁、でけるようになっとるかもしれまへんで!」
雅恵がキラリと眼鏡を光らせてそう言った。

シナノ化成のほうへ向かいながら、ヒンシュクは、ほくそ笑んでいた。
「ありゃあ、まあじき囲碁にハマるな・・・」
後部座席から耀子は聞いた、
「なんでわかるの?」
「あ? ほら(それは)まあ、小さい時分から、あいつはそういう性格だっただよ。 競争意識ていうか・・・」
ヒンシュクの父親と、数由の父親が兄弟で、弟のほうが昔、名古屋に就職してそのまま住み着いた。
それで数由は名古屋生まれなのだが、よくお盆や正月に、G 市の本家(ほんや)に遊びに来た。

「それにのん、あの雅恵ちゃんが、輪をかけてそうだら。 きっと子供んとうと一緒にやり出すだて」
数由・雅恵の夫婦には、息子と娘がおり、どちらもまだ独身で、囲碁をやればさぞかし賑やかなことだろう。
耀子はそのふたりと、法事などで顔を合わせたことはあるが、親しくしゃべった記憶はない。

「それよりのん、ヨーコちゃん」
と、ヒンシュクが改まって耀子に言う、
「推理小説の、あんたが言っとった、たっちゃんとかいうの」
「吉村達也さん」
「本は、あんた、ようけ持っとるかね?」
「100冊くらいあるけど」
「ちいと貸してまえんかね(もらえんかね)?」

ヒンシュクが指にツバをつけてページをめくる姿を想像して、耀子は震え上がった。
「だめだめ、いっくらおじさんの頼みでも、こればかりはご勘弁を! 私の宝物です!」
「ほうか・・・ほいじゃしょうがないのん、古本屋で買うか」
「あっちゃ~、それじゃ、たっちゃん先生に印税がはいらないわー」
「ええだないか、売れっ子なら、大家(おおや)さん(裕福)だら」
「う~~ん・・・それはそうだけど、おじさんだって社長なんだもん」
「ワシか? ワシは恵まれない子だぞん! 愛の手を差し延べてもらわなかん」
「ダメだこりゃ・・・」
耀子はガックリとうなだれた。
となりの席では浩樹が、助手席では登美子が、おかしそうに笑った。

「何冊か読んで、おもしろかったらのん、ワシも推理小説を書いてみるだ」
「ええっ?」
「お父さん、あんたまた、カズさんよりうまいこと書こうと思っとるだら」
なんのことはない、従弟夫妻のことを 競争意識が激しいと言っていたが、本人も対抗意識 丸出しなのだ。
またややこしいことに巻き込まれちゃった、と耀子は思った、どんな駄作を読まされるんだろう?


                  7

日曜日、ヒンシュクは朝から山仕事に行き、昼にはいったん家に帰り、家族できしめんを食べた。
食後に登美子をさそって本屋に行こうとしたが、登美子は、TV ゲームの囲碁にかじりついた。
しかたなくヒンシュクはひとりで、リサイクル書店へでかけた。

「リサイクル」は環境のためにはよいことだけれど、現在の法律では、書籍の場合、作家に不利になる。
ヒンシュクは耀子に黙って、「たっちゃん作品」をとりあえず4冊、買い込んだ。
『嵐山温泉殺人事件』、『回転寿司殺人事件』、『十津川温泉殺人事件』、そして、『富士山殺人事件』。
ホラー文庫なるものもたくさんあったが、推理小説を研究するにはまず、「殺人事件」だ!
そして、ハマった・・・。

一方、浩樹は、コンビニで夜のバイトをするので、夕方までは暇だった。
高3の夏休みなら、受験勉強をしなければならない者が多かろうが、浩樹は逃げていた。
将来のビジョンも何もない。
そんな自分が情けないと思わないでもなかったが、どうにも家にいたくなかった。
それで、耀子がぞっこん惚れ込んでいる、「たっちゃん先生」の作品を読んでみることにした。
きのう雑談をしていた時に、『卒業』・『樹海』がいい、と聞いていたので、何軒か回って両方手に入れた。
そして、『卒業』の第1章を読みながら、泣いた。


                 8

次の土曜日、いつものように囲碁の会が始まるころ、ヒンシュクはいそいそと、文章のコピーを配った。
「えぇ? もう書けたの?」
と、耀子が疑惑のまなざしを向ける。
こんどは小池老人も、不意打ちをくらって しかたなしにコピーを受け取った。

登美子は、ヒンシュクに口述筆記を頼まれてタイピングをしたので、内容はすでに知っている。
キーボードを打ちながら、「えぇっ、そんなひどいこと書くの? やめときん」と言ったものだが。
もちろんヒンシュクは、「ええだ、それで!」と、取り合わなかった。

「まあ、読んでみとくれん♪」
タイトルは、『山登り殺人事件』、これまたガクッとくるようなタイトル。

奥三河の、とある山のてっぺんで、屈強な中年男が死んでいた。
背中をナイフで刺されたらしいが、凶器は見あたらない。
現場には、小さな老婆がひとり、火を焚いて何かを燃やしていた。
ひとりで登ってくる体力もないはずの、この老婆は はたしてどこから現れたのか?

文章がそこそこ読みやすいのは、ヒンシュクの実力ではあるまい、と耀子は思った。
しゃべるのを登美子がタイピングしたというから、その段階で修正されたに違いない。

読み始めてほどなく、耀子が言った。
「・・・おじさん、これ、盗作~! ・・・っていうか、厳密には盗作じゃないかもしれないけど」
「あ、わかっちゃったかのん?」
「まあいいわ、一応みんなで最後まで読んでからね。 すごく短いし」
笑いをこらえながら、耀子は続きを読んだ。

自分の親に保険金をかけて殺そうとした男が、母親に睡眠薬を飲ませて、リュックに詰めて山に登る。
ところが、息子のもくろみを感づいた老婆、睡眠薬を飲んだふりをして、ナイフを隠し持っていた。
頂上についたところで、リュックの中から息子の背中を刺す。
ナイフは谷へ捨てて、リュックを燃やす。
入れ違いに頂上からくだっていたハイカーが、男の絶叫を聞きつけて戻って、警察に通報。

老婆は痴呆のふりをして口を割らなかった。
だが、捜査員の一人がたまたま足を滑らせて 谷へズリ落ちたところ、タヌキが血の付いたナイフをくわえていた。
燃えカスからは、リュックの留め具が発見され、名探偵役の刑事によって真相が明らかにされた。

「や~~、陰険な話だのん」
と、小池老人が、梅干しを3個くらい口に入れたような顔をして言った。
「あれ? これ、お笑いっていうか、ギャグじゃなかったんですか?」
とあわてたのは浩樹で、それには耀子が笑いこけた。

「これは吉村達也さんの、『富士山殺人事件』のカバーの折り返しについてた、ボツにしたアイディアでしょ」
と、耀子が、探偵役の刑事のように言った。
「『さすがにこのアイディアをボツにするだけの良識は持ち合わせていた筆者は・・・』だっけな・・・」
「ボツにしたなら、ええだないか、盗作にはならんだら?」
「う~ん、どうなるのかな。 まあ、どこにも応募とか発表とか しないんならいいでしょ」
「名古屋へは FAX で送ってやるかなあ、あの人んとうは、元ネタを知らんだら」
「そのかわり、思いっきり批判を受けると思うよ・・・」
耀子が 斜めの視線でヒンシュクを見て、一同は大笑いになった。


                 9

シナノ化成の終業時刻が過ぎて、作業服姿の義男が事務所にはいってきた。
「あ~あ、息子が汗水たらして働いて、社長んとうは遊んどるだよ!」
と、陽気に笑いながら、登美子の差し出す 冷えた麦茶を受け取った。

「どうも、お邪魔してます」「あ、お邪魔してます」
耀子と浩樹があいさつする。
「りっぱな息子のおかげで、あんたんとう、楽ができるのん、社長!」
これは小池老人。
「なんの、29にもなって まんだええ人も見つからんで、いつんなったら安心さしとくれるだか」
と、登美子が笑う。

「29なら別になんにも遅ないて! 40過ぎたら言ってくれ」
と言う義男に、登美子は、
「なに言っとるだん、あんたの友達の洋一くんなんか、まあはい二人目の子が生まれるだら?」
「うん、あいつは早かったもん。 あ、洋一で思い出した! ヨーコちゃん、ええニュースがある」
「え? なになに?」
と、耀子は目を輝かせた。
「こないだ洋一から聞いただけど、慎次(しんじ)がまあじき帰ってくるよ。 たぶん本社勤務だと!」
「えっほんと?」

慎次というのは、西村洋一の弟で26歳、名古屋に本社のある電機部品メーカーの社員。
耀子の大学の先輩で、耀子が入学した年に卒業したが、会ったことは何度かある。
義男が西村兄弟といっしょに遊びに行く時、耀子を誘ったのだった。

その後、洋一が結婚して、慎次もあちこちの支社で研修があって忙しく、それぞれの道、となった。
耀子と慎次が お互いに好印象を抱いていることは、まわりも想像がついたが、進展はなかった。
研究部門にいる慎次は、現在、海外研修としてアメリカにいる。
テロ事件以来、家族や友人知人は心配していた。

「だもんでねえ、もしよかったら、ヨーコちゃんのケータイ、教えてくれって洋一が言うだけど」
「わ! ・・・それじゃ、帰ってきたら義男にいちゃん、伝えてくれる?」
「まかせなさ~い♪ 洋一がねえ、しみじみ言うだよ・・・」
と、義男は目を細めて言った、
「『おれはしがないペンキ屋だけど、弟は優秀だで、地球規模で活躍してもらいたい』て」
「しがないってことはないじゃん。 洋一さんはりっぱじゃん、親孝行してるし」
「うん、おれもそう思うよ」

事務所の一座の隅で、浩樹が唇をかみしめて、左右の手をギュッと握りしめていた。
その拳(こぶし)がもう少しで震え出すほどの力がはいって、関節が白く浮き出していた。
登美子と小池老人だけが、その様子に気づいていた・・・。


(第4章終わり、シリアスな第5章に続く・・・でもシリアスはどのへんまで保てるだろうか?)


16: ヒンシュク・5 (初回掲載・2004年秋、再掲載・2005年1月31日)



第5章:失踪


                 1

学校の先生より大変だ・・・竹本直美(なおみ)は、ため息をついた。
子供相手の学習塾経営も、けっして楽な仕事ではない。
教室の経営者が自分であっても、やはり組織の一員として、「お役目」がいろいろある。
直美の所属する塾組織は、「夏期特別学習」も、7月と8月合わせて24日間ある。

自分の両親が 学校の先生だったから、直美はいろいろと苦労したと、自分では思っていた。
結婚して子供ができたら、こんな苦労は味わわせたくない、そう思っていた。
だが子供たちが少し大きくなって、何か仕事を見つけようとした時に、やっぱり教育関係になってしまった。
講習を受け、塾講師の資格を得て、教室を開いて小・中学生を集めた。

助手も雇って、給料を払わなければならない。
生徒たち、その保護者たち、助手の主婦や大学生、そして塾の本部の人間たち。
対人関係の疲れは、思った以上だった。

年々、少子化現象と不況のせいで生徒は減る一方だし、経費を払ったらほとんど残らない。
こんな苦労をして、こんな実入りの少ない仕事なら、辞めてしまおうか・・・。

おまけに自分の息子たち、いや、はっきり言って上の息子の浩樹のことで頭が痛い。
下の息子の俊樹(としき)は、小学生の頃から中3まで、塾の優等生だったからいい。
現在、県下でも名の通った進学校の1年生で、人に自慢できる。

だが浩樹は、模範生だったのは中1までだった。
何が気に入らないのか何かと反抗的になり、成績もガタ落ち、直美の恥となった。
なんとか3流私立高校へ滑り込ませたが、ろくでもない友達とつき合って、親の言うことなど聞かない。
世間体を気にする直美のプライドは、かろうじて俊樹の存在によって保たれていた。

「まったく誰に似たんだか・・・あなたももうちょっとビシッと言ってやってちょうだい!」
直美は、ムシャクシャした気分を夫の浩三(こうぞう)にぶつけた。
浩三は保険の代理店を仕事としており、外づらをよくしなければいけないから、家では仏頂面。
「そっちは『教育』のプロだろうが! ちゃんと自分の子供のしつけをしなかったからだ」
「なによ、自分の責任は一切ないとでも言うの?」

このあとお決まりのコースで、ひとしきりケンカが続き、両方ともさらに不機嫌になる。
「もうかりもせん塾で疲れた疲れたと言って、家族に迷惑をかけるな、辞めてしまえ!」
「私にだって責任てもんがあるんだから! ハイさよならって、辞めれんでしょうが」

そもそもあんたが頼りないから・・・という言葉を、直美はかろうじて飲み込んだ。
浩三の収入で、ぜいたくを言わなければ一家4人が暮らしてはいける。

それよりも、直美が今の仕事にこだわっているのには、理由があった。
自分自身では意識の片隅に追いやっている理由。
直美はそれを、自分では認めていなかった。

優越感を持てなければ、人は幸せにはなれない・・・直美は自分で意識しないが、そう信じていた。
保険代理店業務の夫の妻で、ただの「主婦」、あるいはそのへんの「パートタイマー」。
そんな身分では、人に対して優越感を得られない。
収入が少なくても「先生」と呼ばれ、人を使う立場を、あっさり手放す気にはなれない。

自分はいつだって、必死に頑張ってきた。
ひとをうらやんだりひがんだりするのは、努力をしない人間で、そういう人は見下されて当然だ。
努力をした自分は、優越感を持って当然だ・・・そんなふうに直美は感じていた。

そして悲しいことに、それが回りの人や、自分をも傷つけているのがわからなかった。

直美にとって、いまや心の支えとなっているのは、次男の存在だけだった。
夫はつまらない人間で、長男は一家の恥の不良高校生。
しかも浩樹は、親を必要としない人間になってきている、そこがよけいかわいくない。
反対に優秀な俊樹は、甘ったれなところがかわいいし、私がいなきゃ何もできない。

だが直美は、自分が二人の息子を差別しているということも、意識してはいなかった。
それどころか、自分は二人をできうる限り公平に愛していると思いこんでいた。


                 2

7月も終わりに近づいた火曜日、直美はイライラとキッチンの壁の時計を見上げた。
「あのバカ、こんなに遅くまで、どこをほっつき歩いてるんだろ・・・」
自分で勝手に見つけてきたアルバイトも とっくに終わった時間だというのに、今夜は浩樹の帰りが遅い。

浩樹には、携帯電話は持たせていない。
俊樹は悪い友達もいないし、高校生対象の進学塾へ行っているから、持たせている。
家からちょっと遠いので、浩三か直美のどちらかが、車で送り迎えしている。

浩樹は、夜中過ぎに帰ることはたびたびあったが、無断外泊をしたことはなかった。
いよいよ不良化がひどくなって、家にも帰らなくなるのか?
午前2時近くでは、あちこち電話をかけて探すわけにもいかない。
浩三も俊樹も、すでに寝てしまった。
自分だってあしたも授業があるのだし、これ以上遅くなっては困る。

まあ、帰ってくれば物音で目が覚めるだろう、そうしたら思いっきり叱ってやろう。
口答えしたら、夫も起こして叱らせよう。
そう思って直美は寝ることにした。

直美は、きょう夕方に夫の浩三が 浩樹の学校から電話を受けていたことを知らなかった。
そして浩三が浩樹を詰問していたことも。
その時間帯は、直美が仕事で教室に出ていたり、家にいても仕事の準備で忙しかったりする。
だから浩三も俊樹も、夕方ゆっくり直美と話すことはないし、もとより浩樹は家族としゃべらない。

浩樹は結局、この夜、帰ってこなかった。


                 3

コンビニでのアルバイトが24時で終わり、竹本浩樹は、深夜まで営業しているラーメン屋にはいった。
夕方のことがショックで、夕食もとらずに家を飛び出してきたから、空腹だった。

いつもならオートバイでまず、クラスメートの戸川智(とがわ さとる)の家に向かう。
「戸川モータース」の敷地の片隅で、オートバイから自転車に乗り換えて帰宅するのだ。
浩樹はアルバイトをして作った貯金で、今年の3月、親に内緒で 中古のオートバイを購入していた。
智の親友ということで、よい出物を格安で販売してもらったものだった。
それがとうとう運悪く、父親にバレてしまった。

火曜の夕方、まだ暗くなる前に、浩樹の学校のガラスが何枚か割られた。
生け垣の陰になっていて、まわりから見えにくい、理科準備室。
校庭でトレーニングをしていた野球部の生徒が、ガラスの割れる音を聞いてかけつけた。
その時にはすでに 犯人の姿はなく、何台かのオートバイが走り去る音が聞こえたという。

生徒の報告を受けて、当直の教師が教頭に連絡を取り、オートバイに乗っている生徒の家に電話がかかった。
もちろん、戸川智の家にも電話が行ったが、智の父親が出て、息子は店を手伝っていたと証言した。

学校側は、通学にオートバイを使うことは禁止しているが、帰宅後は黙認していた。
乗っている生徒の名前くらいは、生徒からいくらでも情報がはいる。
それで浩樹の家にも連絡が行ったが、電話に出た父親が、息子がオートバイに乗っていると知って絶句。
とにかく息子はガラスを割ったりしないはずだが、帰宅したら話を聞くから、と言葉を濁した。

そそくさと電話を切って、浩三は浩樹の部屋へ血相を変えて飛んできた。
浩樹が数分前にどこかから帰宅したことを、浩三は知っていた。
「浩樹、おまえというやつは・・・」
「・・・?」
「親に黙ってオートバイに乗っとったんだな!」
「あ・・・」
「馬鹿野郎!」
平手打ちされて、浩樹はよろけた。

「さっきまでどこに行っとった!」
「・・・なんで?」
「今、おまえの学校から電話があって、オートバイのやつに校舎のガラスが割られたと」
「おれは知らん」
「ならどこにおったのか、言え!」
「・・・ちょっとそこらへん走ってきただけだ」
「このバカめが、それじゃ実際にやってなくても疑われるじゃないか! うちの信用は丸つぶれだ!」

浩樹は突然のことに、頭も口もろくに回らなかった。
「おれは・・・やってないってば」
「仲間がやるのをそばで見とるだけでも、同罪なんだぞ! どうせその場におったんだろう!」
「ち、違う・・・」
「うるさい、ろくでもない連中と一緒にウロついとったんだろう。 とにかく・・・」
浩三は肩で息をしながら 息子をにらみつけた。
「誰に何を聞かれても、知らんと言って通せ・・・いや、仲間が捕まって証言されたらダメだな・・・」
「待ってよ、おれ、学校なんか行っとらんて」

頭に血が昇った浩三は、浩樹の言葉など、ろくに聞く姿勢はなかった。
「学校に行ってないと証明できるのか? あ? 誰か証明してくれるのか?」
「・・・ひとりで海の方へ行っただけだ」
「それで誰が納得する! まったく、うちの信用はどうなるんだ! 保険は信用を失ったら終わりだぞ!」
「そんな・・・」
「保険だけじゃない、母さんの塾だって、近所の家庭の信用で成り立っとるんだぞ!」
こういう時だけ、浩三は直美の学習塾を持ち出してきた。
「おまえのおかげで、うちはめちゃくちゃだ、どこまで家族に迷惑をかければ気が済むんだ!」

次にはまた弟のことを言われるはずだった。
浩樹は、父親のわきをすり抜けて家を飛び出し、自転車に乗って戸川モータースへ走った。
直美はテーブルに夕食を置いて、教室に行っているようだったが、浩樹は母を気にする余裕もなかった。
とにかく今夜はバイトだから、ちょっと早いけど家を出なくっちゃ・・・。
ショックで涙がこぼれそうになるのを、仕事のことを考えることで、かろうじて押さえられた。


                 4

コンビニの店員として立ち働いている間は、なんとか家のことを忘れていられた。
だが、ラーメンを食べ終わって、ますます家に帰りづらくなってしまった。
いったい、どうすればいいんだろう。

浩樹は、ポケットからケータイを取り出して、「着信あり」と、「メールあり」の表示に気づいた。
親からは禁止されていたが、コンビニでプリペイドのを買って使っている。
マナーモードにしてあったので、家で夕方の着信に気づかなかった。
着信が智からだったので、かけてみた。

だが、智のケータイは、電源が切られていた。
まさかまだ寝ていないだろうが、もう切ってしまったか、あるいは充電中かもしれない。
智は留守電センターの契約はしてないので、あきらめるしかなかった。
メールを見ると、やはり智からの、事件に関するものだった。

『親父が、その場にいない人間のためのアリバイの偽証はできなかった』と浩樹を心配した内容。
それは無理もない、と浩樹は思った。
とりあえず簡単な返信でも出しておこうかと思ったが、どう書けばいいかわからない。

ほかの友達には頼る気になれなかったし、ましてや家の事情など、話す気にはなれなかった。
ひとりぼっちの自分が、なんだかひどくみじめに思えてきた。
どうせおれなんか・・・気持ちは暗い方へ暗い方へと沈んでいく。
ラーメンの店を出て、海沿いの道をあてもなく走った。

そうだ、オートバイを手に入れた春、うれしくて智と一緒に A 半島にツーリングに行ったことがある。
その時に、この道を通ったんだ。

あれは5月のゴールデンウイークだった。
半島はなにしろ渋滞が多くて、単車といえどもスイスイとは走れなかったっけ。
それでも楽しかった。
クラッチを握る左手が痛くなって、あれにはまいったなあ・・・。
つい2ヶ月半ほど前のことなのに、思い出すと涙ぐみそうになった。

T 市にはいって、見覚えのあるスーパー銭湯の、ネオンサインが見えてきた。
幸い、いくらかの軍資金のはいった財布を持っていた。
とりあえずあそこで風呂に入って休もう、あ、それなら下着の替えも必要か。
先にコンビニで仕入れてからがいい。
サッパリして一息ついたら、智にメールでもするか。

浩樹は、24時間営業のスーパー銭湯で、汗を流して着替えた。
みんなが 借り物の湯上がり着を着ている。
深夜だというのに、けっこうにぎやかだ。
なんだかホッとして、「仮眠スペース」で寝そべっているうち、眠り込んでしまった。


                 5

水曜日の朝になって、竹本家では、浩樹が帰ってこなかったことがわかって騒然となった。
キッチンに現れた俊樹に、直美はさっそく聞いた。
「浩樹がゆうべからいないんだけど、あんた何も聞いてない?」
「知らんよ。 友達とカラオケとかじゃない?」
「それならそれで、連絡ぐらいすりゃいいのに、電話もよこさないなんて!」

浩樹にケータイを持つことを許さなかったのを、今になって直美は後悔していた。
もしかして、連絡をよこさないのは、あてつけかもしれない、とも思った。
スーツに着替えた浩三が キッチンに姿を見せて、直美は同じことを聞いた。
「あいつ・・・あれから帰ってこんのか!」
「ねえ、あなた何か知ってるの?」
「あ? ああ・・・きのうちょっと問いつめたら、飛び出してった。 実はなあ・・・」

浩三は、浩樹の学校のガラスが割られた事件を 直美に話した。
直美もまた、浩樹が 親に黙ってオートバイに乗っていたことがショックだった。
「なんで今まで黙ってたの!」
「ほんなこと言っても、おまえ、バタバタ教室に行っちゃっただろうが」
「・・・・・・」
「いつも夕方なんてそうじゃないか。 とにかく、おれはもう、仕事に出かけるからな!」

いつもじゃないのに・・・。
そう直美は言いたかったが、夫婦でゆっくり語り合うことなど、もう何年もなかった。
私だけのせいじゃないじゃん、あんたがいつも不機嫌な顔でいるから、話すこともできないんじゃん。
私の味方は俊樹だけだ、そう思って直美は、俊樹に声をかけた。

「トシくん、あんたきょう、部活は?」
俊樹は吹奏楽部に所属していた。
「午前中だけ。 でもきょうはそのまんま映画見に行くから、帰りは夕方かな」
「ええ? それじゃあ、私ひとりで浩樹を待ってなきゃいかんの・・・?」
「ほっときゃいいじゃん、夜のバイトまでには帰ってくるんだない?」

とにかく、きょうの仕事は午後なので、もう少し浩樹を待ってみることにした。
まだ直美の中では、帰ってきたら何と言って叱ってやろうか、という怒りが大きかった。
「心配」よりも。


                 6

「あれ?・・・おれって・・・」
浩樹は眠りから覚めて、自分のいる状況を把握するのに 何秒か、かかった。
そうだった、ここは大きな銭湯の仮眠室だ。
手元のケータイを見ると、朝の7時半を過ぎていた。
5時間ほど眠ってしまったらしい。
歯磨きもせずに寝たから、口の中が気持ち悪くて、フロントで洗面用具を買って歯を磨き、顔を洗った。

これから、どうしよう・・・?
怒り狂う両親の顔が、脳裏に浮かぶ。
情けない現実が戻ってきた。
おれは、今はやりの、「プチ家出」をやっちまったのか。
いったいどこから手をつけるべきだろうか?

まず、戸川智のケータイにメールをしてなかったことを思い出した。
『心配かけてすまなかった、今、T 市にいる』と、とりあえず第1報を入れた。
ほどなく智から、電話がかかってきた。
「おい、T 市だって? どうしただ」
「わりぃ・・・家、帰っとらんで、どうしょうかと思って・・・あ、こっちからかけ直すで、切ってくれ」

浩樹は智に、ゆうべ父親からなじられて家を飛び出したままだ、と説明した。
「おまえが単車とチャリ、替えにこんもんで、どうしたかと思っとった」
と、智は心配げな声で言った。
「とうとう単車がバレたか。 おまえんとこ、厳しいもんなあ・・・きょう、バイトどうするだ?」
「ちょっと・・・できれば休みたいだけど、代わってくれるやつ、おるかな?」
「ああ、ケンジに押しつけたれ! 今夜おれと映画行くことになっとるで」
「ええのか? ・・・すまん」

同じコンビニでアルバイトをしている、浩樹や智のクラスの生徒のひとりがケンジだ。
智は自分の家で父親の手伝いをするので、夏は外でのアルバイトはしていない。
だが、モータースが比較的ヒマな冬場は、浩樹たちの働くコンビニでバイトすることもある。
だから店のオーナーとはもちろん顔なじみだ。
「ええて、あいつがあかんなら、おれが臨時にはいるで」
「すまん。 ケンジにメール打っとく。 結果はわかり次第、言うで」

浩樹は胸が詰まった。
親からは、3流高校とバカにされる学校の仲間たちだが、おれには大切な連中なんだ。
こんなに親身になってくれる人間は、この連中だけだ・・・。
「ヒロキおまえ、これからすぐ帰るのか?」
「・・・・・・」
「きょう1日、単車でツーリングすりゃいいじゃん。 まあ乗れんくなるかもしれんだらー?」
「・・・うん」
「かあさんに声だけ聞かせとけや」

そう言われて、浩樹はとまどった。
だが、音信不通というわけに行かないことは、納得できた。
「わかった、番号非通知でかけるわ・・・もしおまえんとこへ電話行ったら、知らんて言っといて」
「ひどいやつだな~」
智は笑いながら言った。

浩樹はスーパー銭湯の食堂で朝飯を注文して、ケンジにピンチヒッターを頼むメールを打った。
食べ終わる頃に、ケンジから OK の返事が来た。
『すまん、恩に着る』と返信して、智にもメールを書く。
『ケンジが OK してくれたのでよろしく。 俺はこれから、』
そこまで打って、どう書こうかと迷った。

なんだか、初めてのツーリングのコースをなぞると言うのは、気恥ずかしかった。
そんなことどうでもいい、と思うのだが、心の奥底までは誰にものぞかれたくなかった。
浩樹は、「ある想い」を振り切るために、A 半島の道を走りたかったから。
メールの続きを、
『夕方まであちこち走って、三河湾の夕陽でも眺める。 グライダーで落ちたとこも行くかも』
と書いて送信した。
智からは、『了解、事故起こさんように気を付けろ』と返事が来た。

さて、次は最大の難問、母親への連絡だ・・・浩樹は気が重かった。
銭湯をチェックアウトして、公衆電話を見つけて、10円だけを入れた。
呼び出し音が3回鳴って、直美の声がした。
「はい」
「・・・あ・・・」
「浩樹? もしもし?!」
「・・・うん・・・ごめん、家、帰れんかった」
「あんた今、どこにおるの! オートバイで行っとるんでしょう! すぐ帰りなさいっ!!」
「悪い、夜までには帰るで・・・あ、それから、ガラス割ったの、おれじゃない」

直美の機関銃のような言葉に 飲み込まれる前に、と思って、浩樹はそれだけを急いで言った。
案の定、その後は直美の 怒濤のマシンガン説教が始まってすぐに料金切れになった。
これでよし、と。
当面の難関を突破して、ほっとした浩樹はオートバイのエンジンをかけた。

250cc のエンジン音は耳に心地よかった。
大排気量のものとは比較にならないが、何よりも心が躍り、同時に安らぐ音だ。
いずれ社会人になったら、大型2輪に乗るんだ。
・・・だが今は、この単車でさえも手放すことになるんだろうか。

ずいぶんたくさんのことを、親に秘密にしていたような気がする。
だが、数えればそんなに多いわけではない。
単車、ケータイ、それから・・・シナノ化成の人たちにお世話になっていること、このみっつじゃないか。

モーターグライダーで海に落ちたことからして、黙っていた。
借りた作業服と下着は コインランドリーで洗って乾かしたし、アイロンも自分でかけた。
「親から」だと言って持っていったお礼は、バイト先のコンビニで買ったお菓子の詰め合わせだった。
そして・・・誰にも言わないでおく、「想い」があった。

ヘルメットをかぶって、物思いを振り切るように、浩樹は駐車場を出て東に向かった。


                 7

今時の高校生だから、親が持たせていなくても、ケータイくらいは持っているかもしれない。
直美は、浩樹が公衆電話からかけてくる可能性と、半々に思っていた。
案の定あっという間に、公衆電話からの10円分の通話が切れてしまった。
まったく悪知恵だけは一人前だ・・・浩樹の声を聞いたことで、直美はちょっと安心した。
同時に、腹が立った。

親としての自分の権威がおびやかされている、そんな気持ちがまた、頭をもたげる。
だけど・・・と、直美は心の端で感じていた・・・ガラスを割ったのは浩樹じゃなさそうだ。
そして自分に濡れ衣が着せられたと思って、息子は逃げているのかもしれない。
「なによ!」と直美はひとりごちた。
「やってないんなら、ちゃんとうちに帰って言えばいいじゃん!」

だけど・・・とまた、直美は思った、うち、そんなに居心地悪いのかな?
浩樹が悪いんじゃないか。
私だって、夫だって、一生懸命やってる。
自分だけダラケてるから、居心地が悪いと感じるに違いない。
さあ、午後から仕事があるんだから、私はそんなこと考えてるヒマはない!

・・・その時、直美の心に、かすかに響いた声があった。
仕事、仕事、仕事・・・私ハ、仕事ニ逃ゲテイナイカ?


                 8

国道1号線と交わる大きな交差点で右折すると、A 半島へ続く道だ。
道路の案内標識を確認しながら、浩樹は陽光に照りつけられながら、南へ向かった。
走っている間はまだいいが、信号待ちではオートバイは暑い!
直射日光、エンジンからの熱も来るし、アスファルトの路面の熱がつらい。

当然だが、冬は寒いし、雨が降れば濡れるし、コケれば危ない。
そんな乗り物になんで惹かれるのか?
それは体験してみた者にしかわからない。
オートバイは4輪車と違って、自分の体格にあったものしか選べない。
等身大だという感覚がある。

コーナーを曲がる時は車体と共に傾きながら、、遠心力の中心はあのあたり・・・と体に感じる。
そして、風の味を知ってしまったら、それは一生、忘れられないものとなる。
エンジンの音も。

さっき1号線を、名古屋方向から来た6台ほどのオートバイが走っていった。
夏でもちゃんとライダースーツ、グラブ、ブーツに身を固めた一団。
正統派のツーリングクラブだ・・・浩樹は心底うらやましかった。
ちゃんと就職したら、おれもあんな単車を買って、カッコ決めて乗りたいもんだ。
だけど、今のままじゃあ、「ちゃんとした社会人」になれるのかな?

道幅が狭くなって、懐かしい気分が強まった。
市街地をはずれたので、道端の草が目につく。
左右に水田や畑や、小さな笹藪が、現れては過ぎていく。

対向車線を、ガラクタみたいな単車に乗った、安っぽい連中が走ってきた。
3台で、うち2台がふたり乗りだった。
工事用みたいなヘルメットを、申し訳程度にかぶってるのや、背中にたらしてるやつも。
・・・なるべくそっちを見ないように、浩樹はその連中とすれ違った。

ちょうど車の通りが途切れて、道が前方までよく見渡せたので、その人影が見えた。
どっかのばあさんが、起きあがろうとしてもがいている。
浩樹は少し手前でオートバイを停めて、道を渡って近づいた。

あまり間近に停めると、交通事故の加害者に見えるので、気をつけている。
警察が調べればわかるだろうが、ゴタゴタは避けたい。
「大丈夫ですか?」
浩樹は、慎重に声をかけた。

「あいたたたた・・・」
ばあさんは肘をさすりながら、ヨロヨロと立ち上がろうとした。
「あ、気をつけて・・・」
浩樹は手を添えて、ばあさんを支えて言った、
「歩けますか?」

かたわらに、ばあさんが押してきたらしい、買い物用の手押し車が倒れている。
それを起こして、持たせてやったが、
「ああ、ありがとさま・・・あいたたたた・・・」
腰や膝も痛むらしく、ばあさんは歩き出そうとして、またしゃがみこんだ。
「さっきねえ、えらい勢いでオートバイがすっとんでったもんでねえ」
と、ばあさんは顔をしかめて訴える、
「す~ぐ近くをとんでくるもんで、び~っくりして転んでまっただわ・・・」

・・・さっきの、こきたない連中だな?
ひどいやつらだ、と浩樹は思った。
「家はどこですか?」
「す~ぐそこだけどのん」
と、ばあさんが指さすのは、50メートルほど離れた民家のうちの1軒であるらしい。
「家の人に電話しましょう、何番ですか?」

浩樹がケータイで、言われた番号に発信してみると、女性が出た。
「あ、あの、今、お宅のおばあちゃんが怪我してますんで、僕、連れて行きます」
「まぁ~、すいませんねえ!」
「おんぶして行くで、買い物車を取りに来てもらえますか? すぐそばですが」
ばあさんを背負って歩き出すと、むこうから主婦がひとり走って来た。

3人で彼女たちの家に着いて、玄関をはいったところでそっとばあさんを降ろす。
「たぶん骨折はしてないと思いますけど、お医者さんに行ったほうがいいかも」
という浩樹に、ふたりの女性はいたく感謝した。
「まぁ~、若いのに、しっかりしたお兄ちゃんだねえ・・・」
「疲れたでしょう、お茶でも飲んでってください!」
「いえ、むこうに単車が置いてあるんで・・・」
浩樹は照れて、玄関を飛び出して、ひたすらオートバイ目指して走った。


                 9

それからどのくらい走ったろうか、とうとう左側に太平洋が見えるあたりまで来た。
すでに半島のかなり先端部に近いところ。
道すがら浩樹は、花壇に植えられた花々を見てきた。
真っ赤なサルビア、オレンジのマリゴールド、ピンクや紫のペチュニア。
浩樹が名を知っていたのは サルビアだけだったが。

いかにも夏らしい、色とりどりの花を見て、浩樹は武藤耀子を思いだしていた。
あの人と一緒に、この景色を見たかった・・・きれいな花や海を見せたかった。
できれば、この単車の後ろに乗っけて。

捨てに来たはずの想いが、胸を締め付けた。
涙がにじんできて、視界がぼやける。

交通量もけっこうあるから、これじゃいけない、しっかりしなければ。
ヘルメットがフルフェイス型なので、シールドを跳ね上げないと涙が拭けない。
片手を顔の前に持ってきた時に、後ろにいた乗用車がいきなりかぶせてきた。
乱暴な追い越しに驚いて思わず右を見た後、浩樹はバランスを崩した。

道がゆるく右へカーブしており、浩樹の目の前には、路面がなかった。
ピンクの小花をつける夾竹桃(キョウチクトウ)の並木。

その茂みに、低い縁石を越えて浩樹はつっこんで、体が跳ね飛ばされた。
まずすごい衝撃が来て、体が浮いて、まぶしい空が見えて、知覚と感覚のズレが感じられた。
地面が迫って、自分にぶつかってきて、そして意識が途絶えた。


                10

仕事が終わると直美は、疲れた体をひきずるようにしてスーパーで買い物をした。
体力にはそこそこ自信があったが、さすがに最近は若いころとは違う。
年々、無理が利かなくなってくるのを痛感していた。

「夜までには帰るで」という浩樹に、とにかく食事をさせなければ。
俊樹を塾まで送っていくのは、夫の浩三が仕事中なら自分だし。

若いうちに、しっかり栄養のバランスを考えた食事を採らないといけない。
私はいつだって、家族の栄養のバランスには気を配っている!
自宅に帰った直美は、ひと息つく暇もなく夕食の準備を整えた。

「あ、トシくんお帰り♪ 映画どうだった? 何見たの?」
「『踊る大捜査線』。 わりとおもしろかった」
「そう? あんた塾あるでしょ、はよ(早く)ご飯食べて」
浩三がまだ帰らないので、俊樹だけに食事をさせて、送っていく準備をする。
3人分の料理は、めいめいに分けて網のカバーを置いた。
今夜もまた、家族全員が時間差で食事かもしれない。

俊樹を送っていきながら、直美はふと気がついた。
兄のことを、この子はまったく聞かない・・・?
『にいちゃん、帰った?』と、普通なら口にするのではないか?
俊樹も兄のことは、迷惑に思っているのだろう、と直美はすぐ納得した。
それが憂慮すべき事態である、という考えは浮かんでこなかった。

俊樹を塾に置いていったん帰宅すると、浩三がひとりでビールを飲んでいた。
「あ、お帰り・・・あなたビール飲んじゃったの・・・」
俊樹を迎えに行くのは、必然的に直美ということになる。

「なんだ、おれは1日仕事して疲れて帰ったんだぞ!」
いきなり不機嫌になる浩三に、直美はうんざりした。
だが、『私だって疲れて、ビールくらい飲みたいのに』という言葉は出せない。
教室を辞めろと言われるのがわかっているから。

「あのね、」と直美は急いで言った。
「けさ浩樹から電話があって、おれはガラス割ってない、って」
「ふん、わかったもんじゃない。 で、まんだ帰ってこんのか!」
「夜までには帰るって言っとったけど・・・」
「だれか友達んとこへ電話してみろ」

そう言われて直美は、息子と親しい友達が誰かわからないことに気づいた。
「なんとかモータースってのがあるだろう、そいつのせいだな」
浩三が毒づいた。
「電話を貸せ、おれが怒鳴ってやる!」
「ちょっと、やめてよ、そんなことしたら・・・」
「なんだ、教室の人気に響くってか?」
「そこまで言ってないでしょ、私は!」
そう反論はしたが、直美の思考回路の多くは、その路線だった。

時刻は、19時45分。
浩樹はバイトに直接行ってしまったのか?
それなら、コンビニのほうへ電話したほうが早いか?
待つのも落ち着かないので、とりあえず友達に聞いてみたほうがいいか。

「戸川くん、だったかな・・・」
職業別電話帳で、「オートバイ」の項目を探す。
「戸川モータース、きっとこれよね」
番号をプッシュしようとした時に、親機のベルが鳴った。
ビクッとして、子機につながるのを待って、トークボタンを押す。

「はい」
「・・・あ、竹本さんですか? 僕、戸川といいますが、浩樹くんは・・・」
「ああ、戸川さん、実は今、こっちからお宅へ電話しようと思ってたところ!」
「え?・・・」
「浩樹はお宅へうかがってないですか?」
「え?・・・あの、まだ浩樹くん帰ってませんか?」
逆に質問されてしまった。

「戸川さん、何か浩樹から聞いてます?」
「・・・・・・」
電話口で、相手がためらうのが伝わってきた。
「正直に言ってもらえる? 浩樹は何か戸川さんに言ってなかった?」
「はあ、あの・・・知らんと言っといてくれって言われたけど・・・」
「いいから、話して!」
「はい。 単車で三河湾の夕陽見てから帰るって・・・」

「うちには公衆電話からかけてきてね、夜までには帰るって言ってたの」
「そうですか・・・どうしちまったのかな、電話にも出んし・・・」
「やっぱり浩樹、ケータイ持ってるのね?」
「あ・・・」
「いいから。 電話に出ない?」
「・・・はい。 メールしても返事が来ません」
「番号、教えて! ついでに、戸川さんのも」

直美は智の読み上げる番号をメモした。
浩樹が今夜のバイトを休むことも聞いて、直美は智にお礼を言った。
「じゃあ、連絡がつくか、浩樹が現れたら、教えてくださる?」
「はい。 そっちが先だったら、おれのほうにも連絡ください」
「うん、そうするから。 夜中はケータイの電源入れて伝言モードにしといて」

智との通話を切ると、直美は浩樹のケータイの番号をプッシュした。
・・・10秒、20秒、虚しく呼び出し音が続く。
次に直美は、自分のケータイからかけてみた。
番号を浩樹に教えてはある。
・・・やはり応答がない。

「どうしよう? まさか交通事故にでも遭ってるとか・・・」
直美は初めて心配そうな声になって、浩三に呼びかけた。
「なんだ、出んのか? 聞こえんだけじゃないのか?」
「・・・・・・」
「交通事故なら、病院か警察から何か言ってくるだろう」
警察と聞いて、直美は一瞬、顔をこわばらせた。
最悪の事態が頭をよぎったから。

でもまだ、そんな連絡はないから、事故の可能性は高くないと思う。
だがそれならなぜ、電話に出ないまま、電源を入れているのか。
出たくないなら、電源を切ってしまうはずだろうに。
もしも病院にいるとしても、本人が出られないなら、誰かが出るだろう。

「ゲーセンだのカラオケだのにおったら、着信に気づかんだろう」
食事をしながら 浩三が苦々しい顔で言う。
「とにかく、あと30分くらいしたら、もう一度かけてみろ」


                11

A 半島の先端にほど近い道路脇で、1台の携帯電話が受信を告げていた。
だが、それは夾竹桃の茂みの根もとで、わずかな光を点滅させていた。
その光にも音にも、気づく者はいなかった。

(第5章、一応終わり、第6章に続く。)



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