17 ヒンシュク・6 (初回掲載・2003年冬、再掲載・2005年1月31日)
おもな登場人物:
品野 俶臣(58)シナノ化成・社長、あだ名は「ヒンシュク」
品野 登美子(53)ヒンシュクの妻
品野 義男(29)俶臣・登美子の息子、シナノ化成従業員
武藤 耀子(22)登美子の姪、大学生
小池 徳次(80)品野家の近所のじいさん
西村 洋一(29)義男の友人、塗装職人
西村 慎次(26)洋一の弟、耀子の先輩
竹本 浩三(47)保険代理店経営
竹本 直美(45)浩三の妻、学習塾講師
竹本 浩樹(17)浩三・直美の息子、高校生
戸川 智 (18)浩樹のクラスメート
花井 照正(33)農業を営む空手家
品野 数由(56)ヒンシュクの従弟、ナンバー機材社長
品野 雅恵(54)数由の妻
ダース・ユーミン 竹本直美のネット友達
第6章:捜索
1
「ヒロキ、どこ行っちまったんだよ・・・」
戸川智(さとる)は、親友の身を案じていた。
竹本浩樹が、「夜までには帰る」と言ったのに、連絡がつかないのは変だ。
浩樹の代わりにケンジがバイトに行っているコンビニに、顔を出してみた。
ケンジこと山本賢治(やまもと けんじ)も、浩樹のその後の様子は何も知らなかった。
「おれが、よけいなこと言っちまったのが、いかんかったかなあ・・・」
智は客の途切れた時、浩樹がゆうべ帰らなかったわけを、賢治に詳しく話した。
「親にバレたで、まあ単車、乗れんくなるで、きょう思う存分乗っとけって言っちまったで」
「おまえのせいだないて・・・単車乗るなら、それは自分の責任だて」
と、賢治はなぐさめて言った、
「だけど心配だで、あしたの朝までに帰ってこんかったら、探しに行くか」
「そうだな、夜じゃ無理だよな・・・」
ケータイはあいかわらず、かけても呼び出し音が鳴るばかりだった。
「ゲーセンにはいっとって聞こえんかった、なんてったら、フクロにしたるぞ!」
賢治は笑って言ったが、智は笑うことができなかった。
それでも、賢治が智の気持ちを軽くしようとしているのがわかって、うれしかった。
「例えば、事故起こして病院へかつぎ込まれたとするらー」
と、智は考えをまとめるために、口に出して言った。
「ほうしたら、免許証見て、家電話にかかってくるらー、たとえケータイがどっか行っても」
「その免許証を持っとらんかったら、わからんぞ」
「・・・あいつのかあさんに、聞いてみるか」
2
自分のケータイが鳴って、竹本直美はビクッとして番号を見た。
さきほど登録した、戸川智からだ。
浩樹と連絡がついたのだろうか?
「はい」
「あ、あの、戸川ですが・・・」
「どう? 何か連絡あった?」
勢い込んでたずねる直美に、智は申し訳なさそうに言った、
「いや、まだです。 ほいで、ちょっと聞きたいんですが、ヒロキは免許証持って行きましたか?」
「あ・・・ちょっと待ってね、まさか置いてったんじゃ・・・」
直美は智の言いたいことがわかって、心配がふくらんできた。
浩樹の部屋に移動する。
普段は、うっとうしい部屋だと思ってはいりたくもないのだが、今はそれを感じる余裕もない。
「・・・いつもはどこにあるんだろ?」
「財布に入れてないとすれば、上着のポケットとか、どうですか?」
「・・・・・・あったわ!」
デニムのジャケットの胸ポケットに、ケースにはいった免許証が見つかった。
ゆうべ父親に詰問されて、浩樹は逃げ出したという。
おそらく気が動転して、免許証を忘れたことに気がつかなかったに違いない。
「・・・警察に、言ったほうがいいかしら?」
「・・・捜索願い、ですか?」
直美は考え込んだが、
「あ、戸川さん、電話代が大変だから、あとでこっちからかけるから、いっぺん切って」
「はい」
直美は、食事を終えてテレビを見ている竹本浩三に言った、
「浩樹ね、免許証持って行かなかったの。 警察に捜索願い、出したほうが・・・」
「警察? もし、あしたんなってフラフラ帰って来たらどうするんだ!」
「それならそれで、いいじゃないの」
「バカ言え、警察がうちへ出入りでもしてみろ、体裁(ていさい)の悪い!」
「・・・・・・」
「とにかくあしたの朝まで待て」
直美がそれ以上、捜索願いを主張しなかったのは、「体裁」以外にも理由があった。
まず、警察は捜索願いを受け付けても、探偵社と違って、積極的な捜査をしてはくれないだろうと思う。
そんな余裕は、警察にはないはずだった。
身元不明の死体などが出た時に、行方不明者のリストを照合する、といった具合だろう。
そこまで悲観的に考えて、直美は身震いした。
それとも・・・怪我をして病院に担ぎ込まれたとして、意識がなかったら?
免許証もなく、自分から連絡先を言えなければ、病院側が警察に連絡するだろう。
その場合、届け出がしてあれば、早くわかるだろう。
そう思うと、一刻も早く届け出たほうがいいのでは、という気になるが・・・。
『あしたの朝まで待ってから』ではいけないか?
直美にはその判断は難しかった。
「そうだ、オートバイ・・・」
オートバイと、所有者の情報が、登録されているはずだ。
原付なら市に、250 cc 以上なら陸運支局に。
何かあれば、警察はそこから身元を割り出すだろう。
「ねえ、ちょっと・・・」
直美は浩三に声をかけた。
「お願いだから、怒ってばっかりいないで、相談に乗ってよ」
「なんだと、おれがいつ怒ってばっかりだ!」
・・・自分の言葉の矛盾に、浩三は気づいていない。
「浩樹はどんなオートバイに乗ってるの? 原付? それとももっと大きいの?」
「そんなこと、おれは知らん!」
不機嫌に怒鳴る浩三に、直美はかまわず続けた。
「大きさにかかわらず、届け出がしてあるよね? もし事故現場にバイクがあれば・・・」
「まんだ事故と決まったわけじゃないだろう!」
「私は可能性のことを言ってるの。 ナンバーから、持ち主がわかるでしょう?」
「だで、そうなりゃ警察から連絡が来るだ!」
浩三はだんだん三河弁が増えてきた。
これ以上、相談しても無駄か・・・直美は悲しくなった。
「私、戸川くんにどんなオートバイか、聞いてみるね・・・」
「勝手にしろ、長電話するだないぞ!」
ため息をつきながら、直美は智に電話した。
「・・・あ、戸川さん、先ほどはどうも。 あのね、浩樹のバイクは、何ccかしら?」
「250ccです」
「もし事故だった場合、浩樹の意識がなくても、警察がナンバーからすぐ身元が割り出せるよね?」
「そうですね・・・盗難車の場合だと、運転してた人間と違うけど、それでもまず照会するでしょうね」
そこでふたりとも、口をつぐんだ。
考えたくないことだが、全く連絡が取れない以上、いろんな可能性を考えないわけにはいかない。
「あしたの朝までに連絡がつかなかったら、僕は探しに行ってみます・・・ここにおるケンジも一緒に」
と、智が言った。
「ああ・・・ありがとう! なんか心当たりがあるの?」
智は、シナノ化成の社長のモーターグライダーのことを、直美に話した。
浩樹が乗せてもらって海に落ちて、智も一緒に焼き肉をごちそうになったこと。
それ以来、浩樹が毎週、囲碁を習いに行っていたことも。
「・・・ほんとはこれ、親には内緒にしといてくれって、頼まれてたんです」
「ありがとうね、よく話してくださったわ・・・」
直美はまた、ショックを受けていた。
長男は、親に何も言わずに、どんどん自分の世界を生きていた。
「それで、その会社のほうとか、落ちたとことか、回ってみようと思うんです」
「・・・ありがとう。 でも、十分気をつけて。 もしあなたたちまで怪我でもしたら・・・」
「大丈夫ですよ、・・・手がかりがつかめるかどうかは わからんけど・・・」
ろくでもない友達連中だなどと、彼らを密かにバカにしていたことを、直美は後悔した。
「・・・学校へは届け出るべきかしらね?」
思わず相談口調になった。
「学校ですか、・・・もうちょっと何かわかってからでいいんじゃないですか?」
智はなかなか、おとなびた受け答えをする。
「大丈夫、きっと無事で戻ってきますよ、あいつ。 その時あんまり叱らんどいてやってください」
と、智は笑って言った。
電話を終えて、直美は涙ぐんでいた。
智の心遣いがうれしかった。
直接会ったこともないのに、心強い味方だという気がした。
浩三に言わせれば、智のせいで浩樹までオートバイに乗っているのが悪影響だ、となるだろうが。
浩樹が 私たちに黙って乗るなんてことをしなきゃよかったのに。
今でこそそう思うが、乗る前に相談されたら、やっぱり許可しなかっただろうな。
どうしても乗りたかったら、無断でやるしかなかったんだ。
長男のそういうところを、直美はこれまで、かわいげがないと苦々しく思っていた。
だが、本当は自分が寂しいのを、怒りにすり替えていたのかもしれない。
3
浩樹はすでに、かなり回復していた。
今は、夜の9時過ぎ。
お世話になっている、この家の人たちに、本当のことを言わずにいるのが心苦しかった。
包帯が巻かれた左肘と、体のあちこちの打撲傷は痛かったが、まあかすり傷の部類だろう。
夕ご飯もしっかりとご馳走になった。
「どうだ、痛みは?」
と、『テルさん』と呼ばれる、30代前半らしい男がたずねる。
「・・・大丈夫、みたいです」
浩樹は、腕や肩を動かして確かめながら答えた。
「そうか、それじゃまあ、顔洗って眠れそうか?」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあな、あしたになったら、まあちょっといろんなこと思い出すだら。 洗面所、こっちだ」
『テルさん』について、ゆっくり歩いて、洗面所に向かう。
浩樹は、「なぜか」タオルや歯磨きセットや、着替えといったものを持っていた。
『テルさん』の仲間のひとりが、浩樹の代わりにオートバイをここまで運転してくれた。
「こっち風呂場。 よかったらシャワーも使ってええよ。 風呂にははいらんほうがええ」
「はい」
「左腕は濡らさんどけ、な。 介助が要るか?」
これは冗談で、『テルさん』は笑っていた。
「いえいえ、大丈夫です・・・」
「あした起きると、体中痛むぞ。 思わんとこに瞬間的に力がはいっとるで、筋肉痛が出る」
「はい。 いろいろすみません」
「ええて、気にせんでも。 じゃあ、ゆっくり休め」
そう言い残して、『テルさん』は廊下を歩いて行こうとして、振り返った。
「万が一、吐き気とかしびれとかしてきて、おかしかったらすぐに呼んでくれ。 夜中でもかまわん」
「はい・・・大丈夫だと思います」
歯を磨いて、顔を洗って、バスルームを借りた。
左腕にお湯をかけないように注意しながら、温かいシャワーをあびた。
農家であるらしく、大きな家には浩樹を泊めてくれる部屋があった。
布団もパジャマも用意してもらえた。
その部屋に戻って、やることもないので、浩樹はとにかく横になった。
まだ10時前だ・・・こんなに早く寝たことなど、ついぞない。
きょう1日のことが思い出される。
朝、T 市のスーパー銭湯を出て、半島の道をずっと走ってきた。
途中で、転んで起きあがれずにいたばあさんを助けて、家におぶって行った。
そして次には、自分が単車で 道路脇の茂みに突っ込んで、通りがかりの人たちに助けられて。
生まれて初めての救急車に乗った。
ずいぶん、気持ちのいい人たちだな、と浩樹は思う。
「身元もわからない」自分を、こんなに親切に世話してくれるなんて。
あの時、意識が戻ってきて最初に耳にした声は、こう言っていた。
「あ、目、あいたぞ・・・おい、大丈夫か? ああ、動かんでもええ、じっとしとれ」
ちょっと離れたところで、別の声も何人分か聞こえていた。
「エンジン、かかったぞ」
「免許証、この荷物ん中にあるかな?」
「・・・ないな。 着替えや洗面道具はあるけど」
「無免許かよ・・・」
「忘れただけかもしれん」
「---さん、免許証ないよ、泊まりがけのツーリングみたいなのに」
「どっかに落としたのかもしれんな、服のポケットにもない・・・おい、聞こえるか、免許証は?」
呼びかけられて、「あ・・・たぶん・・・家に忘れた」と答えた。
「単車は自分のか?」
「はい・・・」
「ほんとだな?」
「はい」
「名前は?」
「・・・・・・」そこでグッタリした表情を作った覚えがある。
頭に手をやって、痛いという動作をする。
ヘルメットがないのは、脱がせてもらったからだろう。
「ああ、無理せんでもええ、じっとしとれ」
「あ、救急車、来たよ」
「ほいじゃ、ゲンさん、単車をおれのうちまで乗ってってくれる? おれは救急車に一緒に乗ってくで」
自分の回りで何人かの話し声が交錯した。
夢を見ているような感覚だった。
意識に薄い膜が張っていて、まったく現実感がなかった。
排気ガスのにおい、救急車のサイレン、運ばれる自分の体。
病院で、あちこちの部屋に運ばれて、脳波の検査が終わるころになって、意識がはっきりした。
スッと急速に、夢から醒めたような感覚だった。
それまで、自分がどんなふうに動いたりしゃべったりしたか、今ひとつハッキリしなかった。
『テルさん』には、救急車に乗る時に、自分の名前も思い出せないと言っておいたと思う。
白いトンネルみたいな機械の部屋に、ひとりでいるのは心細かった。
検査が終わって、待合いスペースに出てみると、『テルさん』が袋を下げて戻ってきた。
「おう、終わったか」
「はい、ここで待つように言われました」
「昼飯まだだろう。 サンドイッチとか買ってきたけど、食うか?」
「・・・いえ、まだちょっと・・・腹へってなくて」
カルテを手にした看護師さんが、『テルさん』を手招きした。
・・・あの人たち、前からの顔見知りかな?
なんとなく、そんな感じがした。
そして自分も手招きされたので、診察室へ入った。
「脳波も、CT の所見も、全く異常ないね。 記憶がはっきりせんというのも、すぐ戻ると思うが・・・」
断層写真が並んだボードを見ながら、お医者さんが言う。
「念のために、入院するかね?」
すると『テルさん』が、思いがけなく言った、
「いや、異常がないんなら、うちへ一晩、泊めますから」
なんでその提案が通ったんだろう?
入院のベッドが満杯だったのかもしれない。
それとも、費用を踏み倒されることを、病院側が心配したのかな?
一緒にロビーへ行くと、『テルさん』は窓口で何か書類を記入して、電話をかけに行って、戻ってきた。
「もうじきカミさんが迎えに来るで、そしたら精算してうちへ行くでな」
「・・・費用、たてかえてもらえるんですか?」
「うん、あとで返してもらうぞ」
「はい。 ありがとうございます」
「おれ、腹へったで、食べるけど、よかったらふたり分あるでな」
そして、迎えに来たのは、ずいぶんきれいな奥さんだった。
『アユミちゃん』という、キビキビしたその女性は、さっきまで浩樹をもてなしてくれていた。
小さい子供がいて、その子を寝かすために、じゃあゆっくりね、と言って奥へ消えた。
浩樹が、助けられた時、記憶が戻らないふりをしてしまったのは、とっさの計算づくだった。
家に連絡されたくない・・・あしたにでも連絡しなければならないとしても、今はいやだ。
それに、記憶がヤバかったという状態なら、親の怒りを減らすことができるかも。
少しは同情してもらえるかも。
それには入院していたほうが効果があるんだが・・・それだとお金が大変かもしれない。
『テルさん』たちの好意を 無にするわけにはいかないし。
ケータイがどこかへ消えたのが、幸い(?)だった。
なんとも情けない、逃げを打ったものだ・・・苦肉の策だった。
あしたの朝、全部思い出したと言って、ここの人たちに身元を明かそう。
家に連絡して、あやまろう。
なにしろ、たてかえてもらった病院の費用を、とりあえず親になんとかしてもらわねば。
短くて長い1日の疲れが、浩樹を眠りに誘い込んだ。
夢とうつつのあわいに、武藤耀子の笑顔がいくたびも現れ、軽やかな笑い声が聞こえた。
4
7月最後の木曜日の朝、品野登美子は、2機のオートバイが来たのに気づいた。
ヘルメットを脱いだふたりを見て、思った、
「あれ? 竹本くんじゃないのかな?」
ひとりは見覚えがある。
あの時、竹本浩樹と一緒にいた高校生だった。
「すみませ~ん、おはようございます!」
事務所の出入り口から顔を出した登美子に、高校生ふたりが声をかけた。
「はい、おはようございます・・・どうしたの?」
「あ、あの・・・ヒロキ、いや、竹本はこちらに来てませんか?」
「竹本くん? いや~来とらんよ?」
「・・・そうですか」
やっぱりここにはいなかったか、という、気落ちした表情の高校生に、登美子は言った、
「あんたはあの時に一緒におった人だね? 竹本くん、どうかしただかん?」
「あ、・・・あの時はありがとうございました、お礼言うのが遅れちゃってすみません」
「いや、そんなこた、どうでもええけど、まあ、こっちはいりん」
二人を事務所の応接スペースに招き入れると、登美子はカルピスをふるまった。
「喉が乾いただら・・・まあ落ち着いて」
「すみません」「いただきます」
カルピスを一気飲みして、氷を噛み砕きながら、二人はまず自己紹介をした。
モーターグライダーが海に落ちた日は、名前も名乗ってなかった。
「戸川智です」「山本賢治です」
そこへヒンシュクこと、品野俶臣(としおみ)がのっそりと姿を現した。
「氷の音が聞こえたでのん・・・ワシにもカルピスおくれん」
「はいはい」
登美子は、濃いめのカルピスを作りながらヒンシュクに言った、
「竹本くんがねえ、行方不明らしいだけど・・・」
「なんだ、竹本くんが、おらんようになっただか?」
「あ、社長さん、先日はお世話になりました」
智はまた自己紹介をして、賢治を紹介した。
火曜日の夕方からのいきさつを、智が品野夫妻に話した。
智と賢治は、先に海岸を回ってから、ここへ来た。
見てきた範囲では、倒れている人間やオートバイはなかった。
登美子は心配そうな顔で聞いていたが、ヒンシュクは、
「よし、ワシも探したるわ!」
と、ちっこい目を輝かせて 席を立った。
「誘拐でもされたかもしれんぞ。 犯人から連絡はないのか? 身代金の要求は?」
これには、登美子も高校生ふたりもびっくりした。
「そんな・・・誘拐なんて・・・まさか、なあ?」
「ヒロキのかあさん、そんなこと言っとらんかったらー?」
と、お互いに顔を見合わせた。
そんなことを聞くと、まさかとは思うが心配になってきた。
ヒンシュクは、
「もしもおれが犯人だとすりゃあ、とりあえず人質を隠す・・・」
とか言いながら、事務所を出ていこうとする。
「なに、お父さんあんた、心当たりでもあるの?」
「ん? ああ・・・たぶんな。 隠れるとすりゃあ・・・」
ブツブツと何か言いながら、ヒンシュクは意外な素早さで、工場の裏手のほうへ消えた。
「・・・?」
残った3人は顔を見合わせたが、智と賢治は立ち上がって後を追った。
事務所の窓から、高校生たちが走っていくのが見える。
登美子はグラスを片づけ始めた。
「・・・おじさん、どっち行った?」
「あっちかな?」
工場の隣には倉庫があるが、その裏には古くて使われていない物置があった。
だがその物置は、初めて来た人間には、目にはいらない。
工場や倉庫をそっとのぞいてみてもヒンシュクがいないので、ふたりは事務所へ戻った。
工場の仕事の邪魔をしてはいけない、と思ったから。
「おっかしいねえ、お父さんどこ行っただねえ?」
と、登美子は首を傾げたが、常日頃ヒンシュクの奇行には慣れている。
「そのうち戻ってくるら・・・それより、警察に聞いてみたらどう?」
G 市の警察署の交通課にでも聞けば、オートバイ事故のあるなしはわかるかもしれない。
だが、話がややこしくなりそうで、気の進まないことではあった。
思わず顔を見合わせるふたりに、登美子は言った、
「心配だったら、聞いてみたほうがええに」
その時、智のケータイにメールがはいった。
見慣れないアドレスだったが、タイトルは、『こちら浩樹』。
その頃ヒンシュクは、古い物置の床に倒れていた。
さっき、鍵のかかっていない戸口を開けて入り、暗がりを数歩、奥へ歩いた。
埃の積もった床には、こまごまとしたガラクタも落ちていた。
それを適当に蹴散らしながら歩いていて、いきなり!
何かに足を取られてよろめいたところ、頭にゴキッという衝撃が来た。
固い棒のようなもので思いっきり頭をはたかれ、ヒンシュクは伸びてしまったのだった。
5
木曜の朝、竹本浩三は、いつもと同じ時刻に家を出た。
出がけに、一睡もしなかったらしい直美が言った、
「さっきね、戸川くんから電話があって、探しに行くって。 もうひとりの友達と」
「・・・だんだん非行に走るわけだ、お前が仕事にかまけてばっかりだからな」
悔しそうに唇を噛む直美に、浩三は言った、
「警察に届けるにしても、絶対、保険会社のほうには来させるんじゃないぞ」
自分が契約している保険会社に 迷惑をかけるわけにいかない。
だがそれは建前で、浩三の本音は、まず自分の体面だった。
長男の事故死だの、誘拐だのの可能性は薄い、と浩三は踏んでいた。
どこからも何も連絡がないからだ。
そう考えれば、ゴタゴタしたことは妻に任せて、自分は仕事に逃げるほうが楽だ。
10時前まで、契約している大手保険会社で仕事をした。
そこに自分のデスクを借りている。
その後、自分の客先へ出向いて書類の作成などをして、早めに昼食に出た。
正午になっていないので、麺類食堂はまだ席の余裕があった。
なんとなく食欲がなかったので、冷たいツナおろしうどんを頼んだ。
普段なら、会社からなるべく離れた喫茶店で昼過ぎまで時間を潰す。
だがきょうはなんだか、人恋しかった。
それで、麺類食堂の外の自販機で缶コーヒーを飲んで、会社に戻ってみた。
自分のデスクのあるフロアまで行くと、給湯室から賑やかな声が聞こえる。
昼食を終えた女子社員たちが、談笑しているのだった。
「・・・それでさあ、私、竹本さんみたいな人がいいなって・・・」
いきなり自分の名前が出て、浩三は部屋に入ろうとした足を止めた。
そっと様子をうかがう。
声の主は、浩三のデスクのそばに席がある、太田(おおた)エリカだった。
入社2年目の、かわいい子だ。
浩三はドキドキすると同時に、おれもまだまだ捨てたもんじゃないな、と思った。
「やだ、エリカって、オジコンだったの?」「きゃあ~♪」
などのヤジがはいり、
「そういうわけじゃないんだけどさあ、あの人、親切で優しいじゃん」
「そうよね、腰が低くって、誰にでもすっごい丁寧だし」
ウムウム、ちゃんと見ているな・・・と浩三は満足の笑みが浮かんだ。
その時、
「エリカちゃん、まんだ若いねえ、ああいう人は結婚すると苦労するよ」
という、ちょっと年輩の女性の声が聞こえた。
なんだ、寺村(てらむら)女史もいたのか、あのババア、何を言いやがる!
浩三は身構えた。
「あの人、目が笑ってないでしょう。 それに、眉間にすっごい怒りジワがあるし」
と、寺村女史が続ける、
「いつも無理してるのよ。 ああいう人は奥さん・子供に八つ当たりすることがありそう」
「ええ~? そうなんですかぁ?」「でもそうかも」「だったらやだー」
「じゃ、家庭人として魅力ないよね」「そうそう!」
無責任な声が続く。
「それに、普段ひとから、あの人はいい人だ、って言われてるとね・・・」
寺村女史の講義が、さらに容赦なく続く。
「自分はいい人間なんだ、って自分で思っちゃってねえ、・・・自分を見失いがちになるの」
なんとなく寂しそうな声だった。
「じゃあ、奥さん・子供に当たり散らしても、自分は悪くないって思っちゃうとか?」
「そう・・・少なくとも、うちの元ダンナはそうだった」
さすがに人生経験豊富な古参社員だけあって、みんなその言葉にうなった。
気がつくと浩三は、男子トイレに駆け込んでいた。
洗面所の鏡に写った自分が、信じられないほどショックを受けた顔をしていた。
・・・おれは、そんなふうに見られてたのか。
「自分を見失いがち」という、寺村女史の言葉が胸に突き刺さった。
きょうからおれは、どんな顔して自分のデスクにいればいいんだ?
体面だの体裁だのを 人一倍気にする浩三は、いたたまれなかった。
太田エリカにどんな顔で、どういう態度をとればいいんだ?
何も聞かなかったことにして、今まで通りの態度を続けるしかない。
それでぎこちなくならなきゃいいが・・・。
その時、上着のポケットのケータイが鳴った。
直美からだった。
「なんだ、なるべく電話するなって・・・」
怒鳴ろうとして、浩三はハッと言葉を引っ込めた。
ここは自宅ではなかった。
そして、「奥さん・子供に八つ当たりする」という言葉が脳裏をよぎった。
「だって、何度もメール入れたけど、なんにも言ってくれないんだもん」
という直美に、
「メール?・・・悪い、気がつかなかった」
と、思わずわびていた。
電話の向こうからは、直美の当惑が伝わって来るようだった。
謝ったことなど、いったい何年ぶり、いや何十年ぶりだろう・・・。
6
戸川智の携帯メールには、浩樹からのメッセージがあった。
『心配かけてすまん、この番号に電話してくれ。090XXXXXXXX 』
急いで電話をかけた。
「はい」
「ヒロキ! 無事か? どこにおるだ!」
「すまん、A 町におる」
「A 町?!」
「うん・・・きんのう事故って、助けてもらった人んとこにおる」
「怪我は?!」
「たいしたことないだけど・・・」
「迎えに行ってやる、単車、乗れるか? 壊れたか?」
「単車は動くけど、ちょっと頼みがある」
智は浩樹の頼みに面食らった。
竹本家の家族に、浩樹がまだ記憶が戻らないことにしてくれ、と言う。
医師の話ではすぐ戻るというが、『混乱を防ぐために、すぐには会わないほうがいい』というのを付け加えてくれ、という頼みだった。
「お前そんな・・・ズルいじゃん。 でも気持ちはわかるな」
智は笑って言った。
「うん・・・ズルいのはわかっとるだけど・・・」
「ええて、おれがうまいこと言ってやるて。 心配するな」
「すまん、恩に着る」
「そんなこと言うな。 ほいじゃ、お前のかあさんに連絡するわ、あとでまたかける」
浩樹の母親に電話をすると、すぐに出た。
「戸川さん、何かわかった?!」
「はい、ヒロキ無事です、いま連絡がありました。 A 町にいます。 だけど・・・」
智はそこで、ちょっと声を曇らせた。
「だけど? どうかしたの? 帰りたくないって言ってるの?」
直美は先をせかした。
「ちょっと事故ったそうで、怪我もたいしたことないんですが、ちょっと一時的に・・・」
「・・・?」
「記憶がはっきりせんみたいです。 お医者さんは、すぐ戻るて言っとるけど」
電話の向こうで、直美が息を飲むのがわかって、智は少し気がとがめた。
「完全に戻るまで、混乱を避けるために、家族に会わんほうがええそうです」
「・・・・・・」
直美は何秒か黙ったが、気を取り直すように言った、
「あ、ごめんね、通話料金かかるから、一度切って、待ってて」
「はい」
折り返しかかってきた電話に、智はこれからとにかく浩樹のところへ行ってみる、と言った。
だが、直美は疑問を口にした、
「浩樹はどうして、戸川さんに連絡したのかしら? 記憶はどういうふうにはっきりせんの?」
やべえ・・・と智は思った。
家族は思い出せなくて、友達だけ思い出すって、あるかな?
「あ、それは、おれのメルアドだけ、覚えとったみたいです。 最初、変なメールだと思ったんです。」
急いで理由をでっち上げた。
「この番号へ電話くれって、知らない番号があって。 ヒロキかもしれんと思って、電話してみました」
「浩樹は、自分の名前も忘れてるの?」
そう聞かれて、智は素早く考えて、話を作った。
「おれがまず、ヒロキか?って聞いたら、ああ・・・とか、はっきり返事せんかったですけど・・・」
おれって、詐欺師の才能があるんだない? と智は自分で思った。
「おれのことは、わかるようなわからんような・・・微妙な感じでした」
「そう・・・」
と、直美は沈んだ声で言った、
「きっと家族のことは、思い出したくないっていう、ブレーキがかかるのね・・・」
「いや、それはどうかわからんけど、すぐ治るって、医者も言ってるそうですから、大丈夫ですよ」
チクチクと罪悪感を感じながら、智は言いつくろった。
倒れていたところへ通りかかって、助けてくれた人が、世話してくれているということも説明した。
そして智は、直美を慰めるように言った、
「これから詳しい場所、聞いて、とにかくおれたち、行ってみます。 会えたら連絡しますから。」
ありがとう、また連絡ください、と言って、電話は切れた。
浩樹に折り返し電話をして、場所の見当をつけた智は、賢治と一緒に A 町へ向かった。
「気をつけて行っといでんよ、ゆっくり走るだよ!」
という登美子の声が、ふたりをちょっぴり幸せな気分にした。
7
「さて、と・・・どこへ行っちゃっただねえ、あの人は」
登美子は工場や倉庫に顔を出して、息子や社員に聞いてみた。
誰もヒンシュクの姿を見ていなかった。
工場の隅には、三河湾から引き上げられたモーターグライダーがあった。
壊れたエンジンははずしてあり、まだ新しいエンジンは購入してない。
乗用車もトラックも、自転車も置いたままで、出かけた様子もない。
「おっかしいねえ・・・?」
そこへ武藤耀子が自転車で姿を現した。
「こんにちは~♪ ちょっと通りがかったもんで」
「あ、ヨーコちゃん、ええとこへ来てくれたわ!」
登美子は耀子に、浩樹が行方不明だったことなどを話した。
耀子はびっくりして、真剣な表情でその事件のあらましを聞いた。
「ふぅ~ん・・・ヒロキくんて、微妙な家庭環境だったんだ」
最近の若い世代は、「微妙」という言葉をよく使う。
「じゃあ、おばちゃんたちも、あの子のこと、よく知らなかったの?」
「そうなんだわ。 最初に会った時にねえ、えらい寂しそうな子だもんで・・・」
小池老人も含めた大人たちで、浩樹のことはあれこれ詮索するまい、と決めていたのだという。
相手の素性を知らないままつき合うというのは、田舎育ちの年輩者には珍しいことだった。
普通はまず、家はどこ、父親の職業は、出身地は、母親はどこの生まれ、など聴取する。
これは悪気でなく、信頼の上につき合うという昔ながらの流儀。
浩樹を見れば、育ちは悪そうではない。
だが、そっとしておいてやらなければ、という雰囲気があった、というのだ。
さっき智と賢治から聞いた話は、浩樹の家庭の事情のごく一部でしかない。
それでも、なんだか応援してやりたくなる気持ちは増幅された。
もちろん耀子は、浩樹が自分に片思いして失恋したことなど知らない。
そのショックもあってひとりで走り回ったあげく、結果として失踪した、とは夢にも思わなかった。
登美子は、浩樹の失恋を薄々感づいていたが、あえてそんなことは、耀子には言わなかった。
「あ、そうだ・・・」
と、登美子がヒンシュクのことを思い出して、消えた時のことを耀子に話した。
「推理小説みたいなこと言って、ど~こ行っただねえ・・・」
耀子は、ちょっと考えてから、言った。
「裏の物置小屋じゃない?」
「まさかあんなとこ、はいってもすぐ出てくるらー」
「反対に隠れて、探しに来た人をおどかすつもりじゃない?」
そうだとすれば、いいかげんシビレをきらして出てもよさそうだが。
「ねえ、おばちゃん、懐中電灯ある?」
「あるよ、ちょっと待っとってね」
「私が、そ~っと行って、おったら逆におどかしたる」
耀子は懐中電灯を後ろ手に持って、倉庫の裏に近づいた。
案の定、戸口があいている。
だが次の瞬間、耀子は思いっきりおどされることになる。
「うわわわわわわわわーーーっ!!」「きゃあぁーーっ?!」
暗がりの中から、ヒンシュクが叫びながら飛び出して来たのだ。
見ると、頭から顔にかけて、細い血の流れがあった。
「どうしたの、おじさん!」
「犯人だ、犯人があん中におったぞ!」
「犯人って・・・なんの?」
「誘拐犯だ。 ワシがはいてったら、いきなり棒で、ド殴りゃがっただ!」
耀子はあぜんとして、ヒンシュクと物置を見比べた。
「誘拐犯なんて、いないよ。 浩樹くんはよそで見つかったんだから」
「ほいじゃ、あん中におったのは、ドロボーか?! あ、危ないぞヨーコちゃん、まんだおるかもしれん」
「もうおるわけないじゃん」
耀子は懐中電灯をつけて、物置の中を照らした。
床には、いろんなガラクタに混じって、古びたデッキブラシが1本、落ちていた。
柄の先のほうには、少量の血がこびりついている。
「ねえ、おじさん、ここで何か踏まなかった?」
「あ? いろんなもん踏んだぞ」
『犯人』は、わかった。
暗がりの中でウロついたヒンシュクが、ブラシ部分を踏んだので、跳ね返った柄が当たったのだった・・・。
8
A 町の、花井家のビニールハウスでは、ハーブの苗が小さなポッドの中で育っている。
それが12個ずつの「ワク」に納まって、棚の上にズラリと並んでいた。
「この列のを、あっちへ運んでくれるか」
「はい」
花井照正(てるまさ)について、浩樹は隣のビニールハウスへハーブを運んでいく。
何往復かして、ひと列分のワクを運び終えて、こんどは新しいポッドを作る作業。
「中は暑いでこっちの日陰でやるまい(やろう)」
「はい」
黒いプラスチックのワクに、底に穴の開いたピンク色のビニールポッドを入れていく。
穴から土が漏れるのを防ぐための、ビニール製のネットを、1枚ずつ底に敷く。
培養土を、袋から小さなスコップでポッドに入れていく。
作業をしながら、花井がまた笑いながら言った、
「いや~、頭ぶった時って、おもしろいな! おれもあんなんなったこと、あるもん」
「いやほんと、どうもすみません」
浩樹は苦笑しながら謝った。
さっき、朝食をごちそうになった時に、「竹本くん」と名を呼ばれて、浩樹は驚いて聞いたのだった、
「あれ? どうしておれの名前、わかったんスか?」
その時、『テルさん』こと花井照正は、キョトンとした顔で答えた。
「何言っとるだ、あんたが自分で、きんのう名乗っただよ。 住所も」
浩樹はキツネにつままれたような顔で、トーストを食べる動作を止めて言った。
「・・・ほんと、ですか? おれ、記憶喪失のふりして、ここの人たちだまして、ほんとに悪かったって思って・・・」
「わはは、やっぱりボケとったんだな」
と、花井は笑った、
「救急車が来る時によう、あんた、『家には連絡しないでください、警察にも言わないでください』て、おれに必死に頼むだもん♪」
浩樹は信じられない思いだった。
自分では、記憶が戻らないふりをしているつもりで、その前にちゃんと名乗っていたとは。
病院で花井が書類に記入したのは、浩樹が言ったのをメモした、浩樹の住所・氏名だったのだ。
花井夫妻が笑いながら教えてくれたことによると、きのうの病院には、花井の妻・あゆみの叔父が勤めていた。
仕事は経理のほうだが、結婚以来、花井もあの病院に顔なじみが増えた。
整形外科もあるので、空手の試合で怪我をした時などにも世話になったという。
「空手って、そんな怪我するんですか・・・」
おびえた顔で聞く浩樹に、
「あ? いやそんなことないよ、普段そう怪我なんかするこたあない」
と、花井はあわてて言った。
「・・・まあおれの場合、ちょっと事情があって、な」
などとお茶を濁す。
いつか機会があったらその『事情』というのを聞いてみたいな、と浩樹はふと思った。
もしかして、空手の試合ではなく、ケンカか何かかもしれない。
だが、花井は暴力をふるうことを好む人間には見えない。
エアロビクスのインストラクターをしているという奥さんには、頭が上がらないし。
「空手の稽古は、『型』と『組み手』とあってな、しっかり、型を練習してから組み手をやればええだよ」
「『フルコン』ですか?」
コーヒーを飲みながら、浩樹はたずねた。
フルコンタクト空手とは、実際に拳や蹴りを当てる流派。
浩樹も、『寸止め』と『フルコンタクト』があることは知っていた。
「フルコンだよ。 でも大人になってから始めた人は、型だけ」
「・・・痛そうだなあ」
浩樹は無意識に、きのう痛めた左肘に右手を持っていった。
「防具も使うし、不思議と夢中になっとる時は、痛みはあんまり感じんよ」
と、花井は笑って言うのだった、
「空手の一番の魅力は、キザな言葉で言うと、自分との闘いっていうかな、性根ができてくる。 型だけでもやれば違ってくる」
そうかもしれない、と浩樹は思った。
花井を見ていると、年齢の差以上の、自信というか、大きさを感じる。
何かを言われても素直に従う気になる。
さっき朝食後にケータイを差し出されて、家に連絡するのがいやなら、まず友達にしろ、と言われた。
智のアドレスだけ覚えていたので、まずメールで連絡した。
智は、浩樹の頼みに応じて芝居を打ってくれるばかりか、賢治と一緒にここまで来てくれるという。
「いい友達に恵まれとるな」
と、その時そばで笑いをこらえていた花井は言った、
「そんないい友達がおるってことは、あんたもなかなかのもんだってことだ」
浩樹は意外だった。
そんなふうに自分を評価してくれる人も、いるのか・・・。
「さて、手伝ってもらったおかげで、だいぶできたな」
花井の声で、浩樹は物思いから現実時間に戻った。
「ほかにも何か、手伝うことありませんか?」
「いや、ちょっとひと休みだ・・・体を動かすこと、勉強より好きか?」
「はい。 あ、でも空手はできるかどうか・・・」
「いやええて、それは考えんでも」
と、花井は笑った。
「あんたを見とると、なんかものすごい、抑圧されとるような感じがしてな・・・気に障ったら許してくれ」
「いえそんな、気にしないでください・・・でも、たぶん当たってると思う」
この人には、話したらわかってもらえるだろうか?
「おれ、小さい頃は優等生だったけど、中学生ごろからずっと落ちこぼれで・・・親に不良扱いされてます」
「兄弟は?」
「・・・弟がひとり。 親の自慢の優等生です」
つい、自嘲的な苦笑が浮かんだ。
「その弟に、あんたは信頼を置いとらんのだな・・・親のロボットかもしれんな」
花井は鋭かった。
「弟はまんだこれから、いろんな体験をして、人間にならにゃいかんな」
浩樹はびっくりして、花井の顔を見た。
「いや、優等生が悪いと言っとるわけじゃないけどな」
花井は目を細めて笑いながら言う、
「竹本くんはこれからどうするんだ、大学、行くのか?」
「いや、おれ、ほんと体を動かすほうが好きだし・・・」
浩樹は地面を見た。
そして、顔を上げて花井を見た。
「今まで迷っとったけど、ひとつ、やりたいことができました」
「ほう?」
「介護の専門学校へ行きたい・・・です」
自分に何かできることが、この世にはあるのだろうか?
きのう事故を起こして、助けられた時に、おれなんか死ねばよかった、と思った。
あの現場からもうちょっと半島の先端へ行ったところなら、断崖絶壁だった。
だけど、花井家の人たちに親切にしてもらって、また智たちに親身になってもらって、そんなことは言えなくなった。
そうしたら、何かの役に立ちたいと思う気持ちが、胸の奥に見つかった。
浩樹は、お年寄りがきらいではなかった。
同世代の連中は、老人は苦手、という者も多いだろうと思う。
「落ちこぼれの不良」になってからは、父方・母方の在所へも足が遠のいてしまったが、昔はかわいがってもらえた。
また、これは浩樹が自分では知らないことだったが、年長者に受けがよい。
母親から知らず知らずのうちに、年輩の者に対する礼儀や、相手を尊重する態度を教え込まれていたのだ。
そういうよさが、竹本家の家庭内では、お互いから消えてしまうのだった。
「それはええな♪ これから先、ますます必要んなる仕事だでな」
花井はニコニコしてうなずいた。
「この先の、T 町にも学校があるぞ。 3年間、続けられるか?」
「やるつもりです・・・やります」
浩樹は自分に言い聞かせるように、はっきりと言った。
「人生もな、空手と同じで、いろんな場面がある。 逃げたらあかん時、『捌(さば)き』が要る時、逃げなあかん時」
花井は、しみじみと言う。
「あんたは今まで、『捌き』がへただったんだないか?」
「『捌き』っていうのは、相手の攻撃をどうするんスか?」
「直接に受けずに、ちょっとした動作で相手の力の方角を変えるだよ、たとえば、こう・・・」
浩樹の右腕を伸ばさせて、それを自分の腕や手で、はじいたりして見せる。
「おれは、モロにダメージを受けて、そのあとは逃げてばっかだったかもしれません」
浩樹は自分の家族を思い浮かべた。
そしておれは、全力でぶつかったことがなかったかもしれない。
9
昼近くになって、智と賢治から、花井のケータイに連絡があったので、道路まで迎えに出た。
オートバイを停めて、ヘルメットを脱いだふたりが、浩樹に言う。
「おい、元気そうじゃん♪」
「ヒロキお前、バカだな、心配したぞ!」
「すまん・・・」
涙がこみ上げる。
「ええて、気にするな。 それより、お前のかあさんに連絡するでな」
智は、ケータイで手短に直美に連絡した。
あとでまた連絡します、と言って、第一報を終えた。
浩樹は花井に、智と賢治を紹介した。
「ほいじゃ、まあ昼だで、あんたんとう腹減っただら? メシ食いにいくぞ♪」
と、花井が3人を誘った。
「あ、奥さんは?」
「きょうはエアロの教室があるで、子供を在所へ預けて、出てったよ。 うまい天丼おごったるで、移動するぞ」
海に近い食堂で、花井は天丼とアイスコーヒーを4人前頼んだ。
プリント合板のテーブルにパイプ椅子の、よく言えば気取らない店だった。
天丼は素晴らしいボリュームで800円。
見回すと、刺身定食も盛りが良く、ほかに『地鶏の手羽先』も人気メニューらしかった。
腹一杯になった4人は、とりあえず花井の家の前に戻った。
「ヒロキ、これからどうする、家に帰るか?」
と、智が聞いた、
「記憶が戻ったことにして、今、電話するか?」
「よかったらもうひと晩、泊まってったらどうだ?」
と、花井が提案した、
「今から下着洗っときゃ、夜までに乾くぞ」
「・・・いいんですか?」
浩樹は乗り気になった。
何となく、花井と別れがたく思っていたのだ。
「そうさしてもらえ、ヒロキ。 今夜のバイトはおれが出てやるで」
智が言って、賢治もうなずいた。
「よし、お前のかあさんに、報告せにゃな」
ケータイを取り出す智に、浩樹は言った、
「あっちからかけ直すように言ってくれるか? そしたらおれ、直接話すで」
覚悟を決めた浩樹は、直美にまず謝った、
「心配かけて、ごめん。 智たちに会ったら、記憶がはっきりしてきて、全部思い出した」
機関銃か迫撃砲のごとき叱声が飛んでくるかと思ったら、直美は泣き出したようだった。
「そいで、ここの人が、よかったらもう1泊してゆっくりしてけって言ってくれるもんで・・・」
直美は、それならあした、立て替えてもらった費用を持ってお礼に上がる、と言った。
母親のことを頼もしく思えるのが、不思議だった。
もうずっと、そんな気持ちを持ったことなどなかった。
「さて、ほいじゃおれたちは帰るか」「そうしまい(そうしよう)」
そこへ花井が、
「おう、メロン持ってってや」
と、ふたりに袋を渡した。
「そんな・・・ごちそうしてもらった上に」
「いや、実はちょっと頼みがあってな・・・」
と、花井はニヤッと笑う。
「こんど G 市に、おれらの空手の流派の道場ができるだよ。 あんたんとうの家にチラシを貼ってもらえんかな」
「いいですよ、おれんち、単車屋だし」「おれんとこも、道沿いに車庫があるで、貼ります」
智と賢治のオートバイには、ゴムの荷ヒモがついてなかったので、メロンはあした直美の車に乗せることになった。
「あ、ヒロキ、お前の単車、どっこも壊れとらんのか?」
と、智が聞いた。
「カウルとヘッドライトにヒビがはいっとって、左のウインカーも割れとる」
「それぐらいなら、ええな。 左折する時ちゃんと、手信号出せよ♪」
「・・・なんか、はずかしいな」
「ぜいたく言うなって! ちゃんと自動車学校で習っただら」
と、賢治が身振りを交えて言い、みんなで笑った。
10
午後も浩樹は、花井の作業を手伝った。
もう左肘の痛みもずいぶん減ったし、朝起きた時の全身の筋肉痛も、だいぶ楽になった。
土に触れる作業というのは、不思議と心が落ち着くものだった。
中国拳法の「五行拳」というのは、万物の構成要素である、木・火・土・金・水のエネルギーを使うという。
浩樹も拳法が出てくる小説は いくつか読んだことがあるが、花井が体験にもとづいた解釈を話してくれて、楽しかった。
聞いているとだんだん、なんとなく自分も格闘技をやりたくなってくる。
農作業も、意識してやればいい鍛錬になる、ということだった。
夕食は、花井家の家族で、ホットプレートを2枚並べての焼き肉パーティーをということになった。
そろそろ準備が整うころになって、花井のケータイにメールがはいった。
「誰だ~、晩飯どきに、やっかいな話でなきゃええが・・・」
と、メールをチェックする。
メールは、花井の流派の、門下生のひとりからだった。
この近くの神社で、賽銭箱を壊している連中がいる、というのだ。
カメラ付きのケータイだから、その連中の乗ってきたオートバイのナンバーを撮って、警察官である門下生仲間に送信したという。
メロンを盗みに来た不良サーファーたちをやっつけた時以来、警察官が何人か花井たちの流派の門下生になっていた。
もうじきパトカーが来るだろうが、ケータイのカメラでは、薄暗がりで連中の姿までは撮影できない。
遠くからでは撮影できないし、フラッシュが光れば気づかれてしまう。
「おい、ちょっと応援に行くけど、一緒に行くか?」
デジカメをひっつかんで、花井が浩樹に声をかける。
「行きます!」
「よし・・・あ、アユミちゃ~ん、帰ってから食べるで、ふたり分、残しといてねー」
「は~い、気をつけてね。 ムチャしないように」
花井のイメージのギャップに、浩樹はなんとなくおかしくなった。
花井の車に向かううち、ケータイに電話がはいった。
「なに、感づかれた? よし、すぐ行くで逃げろ! 追いつかれたらなんとか持ちこたえろ!」
ふたりで車に飛び乗って、1.5キロほど先の神社に向かって飛ばす。
もうじきパトカーが来るだろうから、乱闘はまずいかもしれないが、襲われる仲間をほっておくわけにはいかない。
正当防衛の範囲内で、金属パイプなどを持った相手から 門下生を守る必要がある。
「あんたは車で待っとれ」
「いえ、戦力にはならなくても、頭数が多いほうが、相手にプレッシャーになります」
「そうか、じゃあ、なるべく後ろにひかえて、そのバット持って構えとってくれ。 絶対、無理するな」
「はい」
念のためにヘルメットをかぶらされた。
2分ほどで神社に着き、花井と浩樹が飛び出す。
「長沢(ながさわ)!」
拝殿のほうへ ほんの数段の石段を駆け上がりながら、花井が叫んだ。
石段の下には、3台のこきたないオートバイがあった。
花井の後に続きながら、浩樹はきのう道ですれ違った連中を思い出していた。
「花井さん!」
横のほうから長沢の声がした、
「こっちです!」
拝殿のほうではなく、左手の社務所の裏らしい。
そして、建物の左右から、3人の男が姿を現した。
手に金属パイプや、バールを持っている。
「あとひとり、こっちにいます! 合計4人!」
長沢が叫ぶ。
どうやら、見つかった長沢は逃げたが追いつかれて、取り囲まれていたようだ。
「フン、増援はふたりか・・・」
薄暗くても金髪とわかる男が、バカにしたように言った。
花井と浩樹が金属バットを持っていても、たじろぐ様子もないところを見ると、ケンカ慣れしているのかもしれない。
花井は、やおら金属バットを小脇に挟むと、首にかけていたデジカメを構えて左右の男たちを撮った。
2度・3度とフラッシュが光り、意表をつかれた男たちはあわてた。
「な、何するだ・・・」
社務所の裏で 残りのひとりと対峙(たいじ)していた長沢は、相手がおもてに注意を奪われたのを見逃さなかった。
すかさず飛び込んで、相手の右腕に手刀をたたき込む。
次の瞬間、相手のヒザにローキックを見舞った。
相手はバールを取り落として、地面に転がった。
うめいて立ち上がろうとする男をそのままにして、長沢は境内の方へ走り出た。
その時、2台のパトカーがサイレンを鳴らさずに到着した。
赤い回転灯がまたたいている。4人の警官が境内へ飛び込んできた。
「や、ご苦労さん」
花井は笑いながら、警官たちに挨拶した。
賽銭箱を壊した男たちは、パトカーで連行された。
花井・長沢・浩樹は、花井の車で警察署までついて行って、簡単な事情聴取が行われた。
今では花井の顔は、警察署でも売れていた。
自分の車に戻ると、花井はさっそくケータイを取り出した。
「あ、今から帰るけど、3人になってもええ?・・・ああ、なんでもええよ。 キャベツとタマネギをドーンと・・・」
「花井さん、おれ、キャベツはあんまり好きだないだよ・・・」
と、長沢が情けない声を出すので、浩樹は思わず笑った。
なにしろ初めての経験で、浩樹はまだドキドキしていた。
実際の乱闘にはならなかったが、体中にアドレナリンが出て、ハイになっていた。
花井家でホットプレートを囲んで、3人はごきげんだった。
花井と長沢は、ビールを飲んでいる。
浩樹は未成年だし、事故を起こした後なので、ビールは断り、ウーロン茶を飲みながらせっせと食べる。
肉も野菜もふんだんにあった。
「長沢~、おまえ、逃げんかったのか?」
そうたずねる花井に、長沢は、
「あいつらの単車を撮影しとったら、気づきやがって・・・そのまんま道を逃げると単車で追っかけられますから」
と言った。
「うそだら。 あいつらを逃がさんように、自分から境内のほうへはいってっただら」
と、花井は笑う。
「あんまりムチャするなよ」
「花井さん、おれ、きのうあの連中とすれ違いましたよ」
と、浩樹はきのうの道中で起きたことを話した。
「そうか~、ひどい野郎らだな。 ばあさん助けて、あんた偉いじゃん」
「『お前』でいいっスよ。 ヒロキって呼んでください」
浩樹は、花井と長沢を交互に見て言った。
「あ、長沢にはまんだ話してなかったな、ヒロキとはきんのう偶然知り合っただよ」
浩樹にとってはあまり名誉な話ではなかったが、3人で盛り上がって笑った。
笑われても、この人たちはおれをバカにしていない。
それどころか仲間扱いしてくれるんだ・・・浩樹はうれしかった。
家出するきっかけとなった、校舎の窓ガラスが割られた事件を聞いて、長沢が言った、
「そういや、最近このへんでも、よう学校のガラスがやられるだよ」
「さっきのやつらだないかー?」
と、花井も言った。
「あいつらが、G 市のほうへも出張しただない? 警察でわかったら、お前に連絡するわ」
ありがとうございます、と、浩樹は笑った。
そのあと、不良サーファーどもをやっつけた話を、花井と長沢が交互に語って盛り上がって、夜は更けていった。
(第6章終わり、第7章に続く)
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